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それって感想ですよね?と問う時代の盲点

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「それってあなたの感想ですよね?」という言葉を耳にするたび、胸の奥に小さな違和感が生まれます。なぜこの一言がここまで引っかかるのかを考えてみると、単に議論を止められたというだけではなく、自分の「世界の受け取り方」そのものが切り捨てられたように感じてしまうからです。 このフレーズは、ひろゆき(西村博之)氏がネット上の議論で使った挑発的な物言いとして広まり、「論破」文化とともに若者の間で強い人気を得ていると言われます。論理のほころびを突くには便利な言い回しですし、相手を言い負かす快感を求める人にとっては非常に使いやすい表現なのだと思います。しかし私は、この言葉の背後に、現代社会の認識の偏りが透けて見えるように感じています。 多くの人は、世界を「定義」や「事実」によって理解しようとします。そしてそこから外れたものを主観として退け、主観はあたかも「誤り」や「劣っているもの」であるかのように扱われます。しかし、いわゆる客観と呼ばれているものの多くは、実は大多数の主観が積み重なって生まれた共通認識にすぎません。本来そこに上下関係はないはずです。 私は、ものごとをまず「感じ」として受け取るタイプの人間です。世界は、感性が動くときに立ち上がると考えています。理性は秩序を記述する働きですが、感性は秩序そのものを生み出す働きです。だから主観とは、単なる私的な思い込みではなく、「世界への入口」のようなものだと感じています。 もちろん、私は理性による理解を否定したいわけではありません。理性は社会を支える大切な力です。ただ、世界を捉える方式は一つではないということを忘れたくありません。私が「それってあなたの感想ですよね?」という言葉に反応してしまうのは、主観を切り捨てる態度が、そのまま世界の豊かさを切り捨てる態度と重なって見えるからです。 私のように感性を通して世界を捉える人間にとって、感想とは単なる感情表現ではなく、関係性を感じ取り、新しい意味を発見するための大切な出発点です。それを「議論の弱点」のように扱われると、どうしても居心地の悪さを覚えます。世界は定義やデータだけで成立しているのではなく、人が感じることで立ち上がってくる側面も確かに存在するからです。 主観は弱さではありませんし、感性は曖昧さでもありません。世界を生成させる側にある力です。私はこれからも、その力を大切にしながら世界と...

日本人はひとつになる力を忘れていない

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ドラッカーは、日本を「同化の力をもつ稀有な民族」と評していた。外から入ってくる制度や文化を、混乱させることなく日本の文脈へ統合し、社会全体をひとつの方向へと動かす。その力こそ、明治維新を無血に近い形で成し遂げ、短期間で近代国家へと変貌させた最大の理由だと述べている。 私は、この全体で方向を感じ取る力こそ、日本人の本質だと感じている。理念が掲げられたとき、誰かが強制するわけでもないのに、人々が自然とその方向へ収束していく。ばらばらの個が、どこかで同じ気配を読み取り、同じ流れに入っていくのである。これは単なる従順さや組織力とは異なる。日本人は、理念という雰囲気を敏感に感じ取る感性を持っているのだ。 この感性は、私の宇宙観とも重なる。素粒子が集まって原子となり、原子が集まって分子となり、分子が集まって細胞となり、人間となる。階層が成立するときには、必ず一丸となるという原理が働く。海を構成する無数の水分子が、どこかで海全体の流れを感じ取るからこそ、そこに新しい性質である魚が生まれる。 日本人という集団にも、これと同じ創発の構造が宿っている。理念が示されると、人々は全体の方向を直感し、まるで大きな生命体のようにふるまい始める。その姿は、絵本のスイミーの小魚たちに似ている。一匹一匹は小さくても、群れとして動けば大きな魚となり、その力は圧倒的な強さを持つ。 歴史を振り返れば、日本が国として大きな推進力を発揮した時期には、必ず中心となる理念があった。人々はその理念を感じ取り、自分の役割を自然と理解し、一体となって動いた。ドラッカーが見抜いた日本の力とは、まさにこの創発の力なのである。 そして私は信じている。もし日本が再び明確な理念を掲げることができたなら、この民族は一丸となり、世界でも類を見ない速度で新たな社会をつくり出すだろう。なぜなら日本人は、ばらばらの個の集合ではなく、理念によってひとつの生命体として立ち上がる創発民族だからである。

日本の強さはこれから輝きを増す

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日本はこの30年間、停滞の象徴のように語られてきました。しかし私は、それは日本に力がなかったからではなく、国際政治の力学の中で「力を発揮することが許されなかった」からだと捉えています。アメリカが主導する国際秩序の下で、日本は大きく表舞台に立とうとすると叩かれた。TRONの排除、プラザ合意、バブル崩壊。そのいずれも、日本が世界の中心に近づきすぎたときに起こっています。 つまり日本は、本来「新しいものを生み出す力」を持っていたにも関わらず、それを前面に出せなかった。そこで日本が選んだのは、表の競争ではなく、目立たない領域で世界を支えるという道でした。素材、部品、精密加工、計測機器、医療機器、工作機械。どれも表からは見えないけれど、これがなければ世界の産業は一歩も進めない。日本は縁の下で世界を支え続けてきたのです。 では、なぜこれからはその静かな力が表に現れてくるのか。理由は大きく4つあります。 第一に、世界が「情報の時代」から「実体の時代」へ回帰しはじめていることです。ITや金融は華やかですが、AIによって大量の仕事が代替され、儲かる企業は増えても雇用は増えません。観光は国際情勢で一瞬にして止まる。しかし、エネルギー、食料、インフラ、製造、物流といった「リアル」を支える仕事は、AI時代ほど価値が増す。人が生きる以上、物は必要であり、機械は動き続けなければならない。日本はまさにその「リアル」の技術を積み重ねてきた国です。 第二に、地政学的な分断が「信頼できる国」を求めるようになったことです。中国一極依存の時代は終わり、企業はサプライチェーンを分散せざるを得ません。そのとき必要とされるのは、品質、安定供給、誠実さ、透明性、契約遵守。これらをすべて満たす国は、実は日本しかありません。日本の素材・部品が止まれば世界が止まる。その事実がこれからより鮮明になるでしょう。 第三に、AI時代は「数値化できない価値」が問われる時代になることです。AIは合理性の領域をすべて奪うでしょう。しかし、音、手触り、揺れ、質感、違和感のなさ、美しさ。こうした「見えない品質」は、日本人の感性に深く根ざした領域です。世界が合理だけで進めなくなるほど、「感じの良さ」をつくれる国が強くなる。これは日本の土壌そのものです。 第四に、世界が派手な覇権より「目立たない安定」を求め始めているからです。政治的にも経済...

ヒューマノイド時代と人間の感性

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ヒューマノイドロボットに関するニュースが、ここ最近とくに増えてきました。中国やアメリカでは実用化に向けた動きが加速し、日本でもロボット開発を本格化させる企業が増えています。技術の進歩と人手不足が重なり、「人型ロボットが実際に働く」未来が現実味を帯びてきたと感じます。 ただ、この流れを単純に「機械が人間の仕事を奪う」とだけ捉えるのは、少し違うと思います。むしろ技術が進化すればするほど、人間の感性そのものが価値の中心に浮かび上がる時代がやってくると考えています。 実際、アメリカで会計士から配管工へ転職し、給与が3倍になったという記事はとても象徴的でした。配管工という仕事は単純作業ではなく、現場で判断し、調整し、最適な方法をその場で見つける力が求められます。これは単なる技術ではなく、状況全体を読み取り、微妙な違和感を察知し、手を動かしながら正解を探す「感性の仕事」です。高度なAIやヒューマノイドでも、こうした領域にはなかなか踏み込めないのだろうと感じます。 米国、会計士から配管工で給与3倍の幸福度 「AIで雇用創出は望み薄」 AIは膨大なデータを処理でき、驚くほど正確になっていますが、「感じ取る力」「場を読む力」「判断の質」は、人間がまだ大きく優位です。そして技術が進むほど、こうした感性的な力の重要性が逆に際立ってくるように思います。機械が得意なのは要素の分解と計算ですが、人間が本当に強いのは、状況を丸ごとつかみ取ることだからです。 今後、単純作業は確実にロボットに置き換わっていきます。しかし、それによって人間の役割が減るのではなく、人間が担う領域がより「人間らしい仕事」に集約されていくと考えたほうが自然です。創造、判断、調整、配慮、手ざわり、そして「違和感に気づく力」。こうした感性的な能力は、技術が進歩するほど価値を増すと思います。 私たちのものづくりの仕事も、同じ構造の中にあります。加工や組み立ての一部は自動化されるでしょうが、最適な条件を見極めること、素材のクセを感じ取ること、仕上がりの美しさを整えることには、必ず人間の感性が関与します。技術だけでは届かない領域が確かに存在しています。 ヒューマノイドの時代は、技術が人間を置き換える時代ではありません。技術が進むことで、人間の感性の価値がいっそう明確になる時代です。 これから求められるのは、技術を拒むことでも盲信する...

世界が学び、日本人が忘れた経営

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日本人の経営には、世界の主流とは異なる独自の感性がある。欧米型の経営が「数字を出発点に世界を捉える」方式だとすれば、日本の経営は「場のふるまいを感じ取り、その流れに沿って意思決定する」ことを基底にしてきた。ドラッカーが日本の画家を評して「まず空間を見て、次に線を見る」と述べたように、日本人はまず「関係の場」を感じ、その上に線=実務や成果を置く。 しかし残念ながら、この日本的経営の核心は近年大きく損なわれてしまった。株主資本主義の波が押し寄せ、数字そのものが目的化し、数字を「追うべきもの」として信仰するようになってしまった。かつて日本人が自然に育んできた「場を整えれば成果は立ち上がる」という感性は、今では古い、非合理、非科学的とみなされがちである。 興味深いのは、この日本的経営の本質を、むしろアメリカの成長企業が積極的に取り入れていることだ。トヨタ生産方式に代表される現場改善の思想、ユーザーを深く理解する姿勢、長期視点の育成、組織を「学習する場」として扱う文化。いずれも本来は日本の風土から生まれたものだが、それをアメリカ企業が分析し、体系化し、カッコいいビジネス用語を使って再構築した瞬間、日本人は「これこそ最新の経営だ」と称賛する。 もともとは我々が生み出したものなのに、逆輸入されて初めて価値を感じる。これは、現代日本が陥りつつある「理性による定義に過度に依存する傾向」を象徴している。自分で感じ取っていたものを、外国の言語で定義されて初めて「正しい」と安心してしまう。感性でつかんでいた本質を、言語化されるまで信じられなくなってしまった。 日本的経営は、数字を否定しない。むしろ数字を極めて丁寧に扱う。ただし日本人にとって数字とは、「海の状態を読むための痕跡」であり、海そのものではない。海(関係の場)を整えれば、魚(成果)は自ずと生まれる。成果を生むために場を絞り上げるのではなく、場が健全であれば成果は創発として立ち上がる。この因果が本来の日本的順序である。 ところが現代の日本企業は、この順序が逆転してしまった。魚を追い続け、海が痩せ細り、創発が消え、技術者の誇りも薄れつつある。ここにこそ、現代社会が抱える「理性偏重」という行き止まりが、最も鮮明に現れている。 いま復権させるべきは、日本的経営の「古さ」ではなく、その「深さ」である。数字では測れない価値を感じ取る力、関係を...

日本人と感性

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日本人ほど「感性」を軸に世界を読み取る民族は珍しいと思います。それは単なる情緒文化ではなく、世界をどう捉え、どう創造するかという「認識方式」そのものです。 ピーター・ドラッカーは「すでに起こった未来」第11章で、日本の画家について興味深い指摘をしています。「日本の画家は空間をまず見て、線を見るのはその後である。線から描きはじめることはない」。これは対象を「パーツ」へ分解して理解する西洋とは対照的です。日本人は、まず全体の雰囲気や気配を受け取り、その中から線が自然に立ち上がってくる。つまり部分ではなく、全体のふるまいを先に感じ取ってしまう民族なのです。 私は、この特徴こそが日本人の本質的な強みだと考えています。 近代の科学は、世界を要素へ分解することで発展してきました。しかし21世紀は、個々の「要素」よりも、要素間の「関係」が世界を動かしています。創発、複雑系、ネットワーク、文脈。どれも「全体のふるまい」を見なければ本質に触れられません。 これは、複雑系科学が示すように、要素そのものではなく、要素が結びついたときに生まれる「全体のふるまい」こそが本質である、という現代の理解とも共鳴します。 そして、日本人は歴史的にその認知能力を使い続けてきました。日本庭園の余白の扱い、茶道の「間」、工芸に宿る素材との対話。美は物の形にあるのではなく、物と物の「あいだ」に宿る。そこに立ち上がる全体の調和を感じ取ることが、日本人の感性の核です。 今、世界はこの「日本的感性」を必要としはじめています。AI、ロボティクス、分散システム、創発的デザイン。どれも要素分解の論理だけでは届かず、全体の振る舞いを「感じる力」が求められています。 理性は秩序を記述しますが、感性は秩序を生み出します。二つが共鳴したとき、新しい科学も、新しい創造も立ち上がる。日本人はその両方を同時に扱える素地を文化的に持っています。 私は、日本人の感性こそが、これからの時代に必要とされる「未来の知性」の原型になると感じています。そして、その視点を言語化し、現代に接続していくことが、いまの私たちの役割なのだと思います。

世界を導く使命を、日本はすでに持っている

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ピーター・ドラッカーは「すでに起こった未来」第11章で、日本画を通して日本社会の特質を読み解こうとしました。日本画には強い自己主張がなく、余白が大きく、視点が一点に固定されず、全体の気配が静かに漂っています。描かれていない部分が景色を生み、輪郭ではなく関係が場を成立させる。ドラッカーはこの表現形式に、日本人が長い時間をかけて育んできた、全体性と調和を大切にする精神を見出しました。それは欧米的な個の突出とは異なる、独自の価値観を示しています。 私は、現代社会の荒廃の要因として、この価値観が失われつつあること、そしてその背景に理性偏重があると考えています。啓蒙思想以来、理性は「世界を分解して理解する力」として高く評価されてきました。しかしその過程で、人は自分と他者を明確に切り分け、競争、対立、格差、孤立へと向かいやすくなりました。理性は秩序を記述する力ですが、同時に世界を細分化し、関係性を感じ取る力を弱めてしまうことがあります。 一方、この宇宙は創発によって発展してきました。関係が先にあり、個はその結び目として生まれる。海がお魚を生むという比喩が示すように、存在は全体の働きの中で立ち上がるものです。ドラッカーが日本画に見たものも、この創発的原理に響き合う感覚でした。余白が意味を生み、部分は全体の流れの中で息づく。日本人は、この感受性を潜在的に共有してきた民族だといえます。 だから日本では、全体が幸福でなければ個も幸福ではないと感じます。欧米では、周囲がどうであれ、自分が幸福なら幸福と考える。しかし日本人は、周囲と切り離された幸福を本能的に信じない。全体が濁れば自分も濁る。全体が澄めば自分も澄む。このあり方を「幸福感が低い」と否定的に語る風潮がありますが、私はむしろ希望だと感じています。 なぜなら、個の幸福は全体への貢献によって必ず還元されるからです。この循環を理解している民族は稀です。日本人は、自らのこの性質に誇りを持つべきです。そして、この価値観を世界に伝える役割があります。ドラッカーは、日本を「未来を先取りした社会」と呼びました。私は、その未来とは、理性を越えて感性が世界を導く時代だと考えています。今、世界はその転換点にあります。そうならなければ、人類は成熟せず、平和も豊かさも実現しないでしょう。 日本こそ、その道筋を示すリーダーになるべきです。