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世界が学び、日本人が忘れた経営

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日本人の経営には、世界の主流とは異なる独自の感性がある。欧米型の経営が「数字を出発点に世界を捉える」方式だとすれば、日本の経営は「場のふるまいを感じ取り、その流れに沿って意思決定する」ことを基底にしてきた。ドラッカーが日本の画家を評して「まず空間を見て、次に線を見る」と述べたように、日本人はまず「関係の場」を感じ、その上に線=実務や成果を置く。 しかし残念ながら、この日本的経営の核心は近年大きく損なわれてしまった。株主資本主義の波が押し寄せ、数字そのものが目的化し、数字を「追うべきもの」として信仰するようになってしまった。かつて日本人が自然に育んできた「場を整えれば成果は立ち上がる」という感性は、今では古い、非合理、非科学的とみなされがちである。 興味深いのは、この日本的経営の本質を、むしろアメリカの成長企業が積極的に取り入れていることだ。トヨタ生産方式に代表される現場改善の思想、ユーザーを深く理解する姿勢、長期視点の育成、組織を「学習する場」として扱う文化。いずれも本来は日本の風土から生まれたものだが、それをアメリカ企業が分析し、体系化し、カッコいいビジネス用語を使って再構築した瞬間、日本人は「これこそ最新の経営だ」と称賛する。 もともとは我々が生み出したものなのに、逆輸入されて初めて価値を感じる。これは、現代日本が陥りつつある「理性による定義に過度に依存する傾向」を象徴している。自分で感じ取っていたものを、外国の言語で定義されて初めて「正しい」と安心してしまう。感性でつかんでいた本質を、言語化されるまで信じられなくなってしまった。 日本的経営は、数字を否定しない。むしろ数字を極めて丁寧に扱う。ただし日本人にとって数字とは、「海の状態を読むための痕跡」であり、海そのものではない。海(関係の場)を整えれば、魚(成果)は自ずと生まれる。成果を生むために場を絞り上げるのではなく、場が健全であれば成果は創発として立ち上がる。この因果が本来の日本的順序である。 ところが現代の日本企業は、この順序が逆転してしまった。魚を追い続け、海が痩せ細り、創発が消え、技術者の誇りも薄れつつある。ここにこそ、現代社会が抱える「理性偏重」という行き止まりが、最も鮮明に現れている。 いま復権させるべきは、日本的経営の「古さ」ではなく、その「深さ」である。数字では測れない価値を感じ取る力、関係を...

日本人と感性

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日本人ほど「感性」を軸に世界を読み取る民族は珍しいと思います。それは単なる情緒文化ではなく、世界をどう捉え、どう創造するかという「認識方式」そのものです。 ピーター・ドラッカーは「すでに起こった未来」第11章で、日本の画家について興味深い指摘をしています。「日本の画家は空間をまず見て、線を見るのはその後である。線から描きはじめることはない」。これは対象を「パーツ」へ分解して理解する西洋とは対照的です。日本人は、まず全体の雰囲気や気配を受け取り、その中から線が自然に立ち上がってくる。つまり部分ではなく、全体のふるまいを先に感じ取ってしまう民族なのです。 私は、この特徴こそが日本人の本質的な強みだと考えています。 近代の科学は、世界を要素へ分解することで発展してきました。しかし21世紀は、個々の「要素」よりも、要素間の「関係」が世界を動かしています。創発、複雑系、ネットワーク、文脈。どれも「全体のふるまい」を見なければ本質に触れられません。 これは、複雑系科学が示すように、要素そのものではなく、要素が結びついたときに生まれる「全体のふるまい」こそが本質である、という現代の理解とも共鳴します。 そして、日本人は歴史的にその認知能力を使い続けてきました。日本庭園の余白の扱い、茶道の「間」、工芸に宿る素材との対話。美は物の形にあるのではなく、物と物の「あいだ」に宿る。そこに立ち上がる全体の調和を感じ取ることが、日本人の感性の核です。 今、世界はこの「日本的感性」を必要としはじめています。AI、ロボティクス、分散システム、創発的デザイン。どれも要素分解の論理だけでは届かず、全体の振る舞いを「感じる力」が求められています。 理性は秩序を記述しますが、感性は秩序を生み出します。二つが共鳴したとき、新しい科学も、新しい創造も立ち上がる。日本人はその両方を同時に扱える素地を文化的に持っています。 私は、日本人の感性こそが、これからの時代に必要とされる「未来の知性」の原型になると感じています。そして、その視点を言語化し、現代に接続していくことが、いまの私たちの役割なのだと思います。

世界を導く使命を、日本はすでに持っている

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ピーター・ドラッカーは「すでに起こった未来」第11章で、日本画を通して日本社会の特質を読み解こうとしました。日本画には強い自己主張がなく、余白が大きく、視点が一点に固定されず、全体の気配が静かに漂っています。描かれていない部分が景色を生み、輪郭ではなく関係が場を成立させる。ドラッカーはこの表現形式に、日本人が長い時間をかけて育んできた、全体性と調和を大切にする精神を見出しました。それは欧米的な個の突出とは異なる、独自の価値観を示しています。 私は、現代社会の荒廃の要因として、この価値観が失われつつあること、そしてその背景に理性偏重があると考えています。啓蒙思想以来、理性は「世界を分解して理解する力」として高く評価されてきました。しかしその過程で、人は自分と他者を明確に切り分け、競争、対立、格差、孤立へと向かいやすくなりました。理性は秩序を記述する力ですが、同時に世界を細分化し、関係性を感じ取る力を弱めてしまうことがあります。 一方、この宇宙は創発によって発展してきました。関係が先にあり、個はその結び目として生まれる。海がお魚を生むという比喩が示すように、存在は全体の働きの中で立ち上がるものです。ドラッカーが日本画に見たものも、この創発的原理に響き合う感覚でした。余白が意味を生み、部分は全体の流れの中で息づく。日本人は、この感受性を潜在的に共有してきた民族だといえます。 だから日本では、全体が幸福でなければ個も幸福ではないと感じます。欧米では、周囲がどうであれ、自分が幸福なら幸福と考える。しかし日本人は、周囲と切り離された幸福を本能的に信じない。全体が濁れば自分も濁る。全体が澄めば自分も澄む。このあり方を「幸福感が低い」と否定的に語る風潮がありますが、私はむしろ希望だと感じています。 なぜなら、個の幸福は全体への貢献によって必ず還元されるからです。この循環を理解している民族は稀です。日本人は、自らのこの性質に誇りを持つべきです。そして、この価値観を世界に伝える役割があります。ドラッカーは、日本を「未来を先取りした社会」と呼びました。私は、その未来とは、理性を越えて感性が世界を導く時代だと考えています。今、世界はその転換点にあります。そうならなければ、人類は成熟せず、平和も豊かさも実現しないでしょう。 日本こそ、その道筋を示すリーダーになるべきです。

科学の限界を越える日本の力

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私は、これからの時代は西洋中心の世界観が終わり、東洋思想を含んだ新しい地平へ移っていくと感じています。ただし、それは過去の東洋思想への回帰ではありません。西洋が極めてきた科学や合理性、そして個の意識を土台にしながら、その背後にあるもう一つの層を静かに接続していく移行です。この接続こそ、私がこれまで話してきた物質宇宙と意識宇宙の関係と重なります。 物質宇宙は「存在するから認識する」という、西洋科学が扱ってきた側の世界観です。対して意識宇宙は、「認識するから存在する」という、世界を立ち上げる側の働きです。 この二つは切り離せず、ちょうど裏表のように同時に成立しています。しかし、これまでの科学は表ばかりを扱い、裏側にある認識の働きを科学の中心には据えてきませんでした。意識研究そのものは欧米の学術界でも活発ですが、それはあくまで「意識を対象化して研究する」という枠組みの中にあります。認識そのものが存在を成立させるという視点までは、文化的にも方法論的にも踏み込めていません。 私は、科学が次の段階へ進むには、この裏側を欠落させたままでは限界が来ると思っています。意識宇宙をもう一度、世界を説明する構造のなかに接続したとき、科学は新しい広がりを持つはずです。ものを分解して理解するのではなく、関係や働きから現象を捉える姿勢が求められます。創発とは、要素ではなく「間」に宿る関係から、新しい階層が立ち上がる現象です。物質宇宙だけでも意識宇宙だけでも説明できず、両面を扱う視座こそが必要になります。 ここで、日本人の強みが大きな意味を持ちます。ドラッカーが明治維新を世界史でも稀有な成功例と評価した理由にもあるように、日本は異質なものを混乱させず同化する力を持っています。仏教と神道、伝統と西洋文化、民主主義と日本的価値観。これらを衝突させず「同時に成り立たせてしまう」この特性は、物質宇宙と意識宇宙を橋渡しするうえで極めて重要です。 さらに日本人には、世界を要素ではなく関係として感じ取る感性があります。間、気配、空気、調和。これは意識宇宙の感受性です。そして、この「つながりを感じ取る力」こそ、欧米の学術がまだ扱いきれていない領域でもあります。 いま世界は、合理性だけでは前に進めなくなっています。AIが理性の領域を代替し、数値化できる価値の希少性が落ち、意味や物語、感性といった領域がより重要になっ...

地図なき学びが生む断片性

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最近、YouTubeで大学の講義動画をいくつか視聴しました。先生たちの知識量は膨大で、その専門性に感服しました。ただ、見ているうちに、どうしても小さな違和感が残りました。それは、細かい知識はよくわかるのに、その知識が「世界のどこに置かれているのか」という地図が示されないまま話が進む点です。木は見えるのに、森のかたちが分からない。そんな感じでした。 現代の学問は長い時間をかけて細分化され、部分へ部分へと掘り下げて発展してきました。そのおかげで高度な研究が可能になったのは確かですし、先生たちが日々努力されていることもよく伝わります。ただ、その構造ゆえに、どうしても「全体像を先に示す」という時間が後ろに押し出されてしまうことがあるのだと思います。これは先生個人の問題ではなく、教育の仕組みとして自然に生じる傾きです。 しかし、この傾きが続くと心配になることがあります。それは、学ぶ側が「断片的な知識」ばかりを集めてしまうということです。ある場面では詳しいのに、少し状況が変わると急に難しくなる。「この部分ならできるけれど、他の場面では力が出ない」という人が増えてしまう。これは本人の能力不足ではなく、地図を持たずに学んでしまうために起きる、ごく自然な結果だと思います。 一方で、最近の学問の動きを見ていると、少しずつ空気が変わってきているようにも感じます。個別の知識だけを見るのではなく、「それらがどうつながっているのか」「どんな関係で支え合っているのか」を重視する方向へ、静かに向かい始めているのです。バラバラに扱われていた知識を、もう一度ひとつの世界として見直すような流れです。 だからこそ、学びの最初に「地図」が必要だと感じます。地図があれば、細かい知識がどの枝に属し、どの幹につながっているかがひと目でわかります。逆に地図がなければ、どれほど努力しても知識は点の集まりになり、線にも面にもなっていきません。森の全体像を知らないまま、ひたすら木だけを数えているような状態になってしまいます。 本来、学びとは全体をつかみ、そこから部分へ降りていく流れの中でこそ力になります。最初に地図を手にすると、世界の見え方が一変し、知識が一本の道のようにつながり始めます。地図を取り戻すことは、学びをむずかしくするためではなく、むしろやさしく、そして強くするために必要なことなのだと思います。

私たちはなぜ本当にすごい人を見落とすのか

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人は何を持って、誰かを尊敬するのでしょうか。尊敬という言葉は簡単に使われますが、その実態を考えてみると、意外なほど複雑です。 私たちはしばしば「理解したから尊敬する」のではなく、多くの人が「すごい」と言っているからという理由で尊敬してしまうことがあります。アインシュタインの相対性理論を本当に理解できる人は少ないと思いますし、ピカソの作品を専門的に評価できる人も多くはありません。それでも私たちは、世の中の評価に引きずられるように、彼らを偉人として扱います。坂本龍馬にしても、当時の人がその実績の具体的な価値を正確に理解していたわけではないでしょう。それでも「すごい人」という空気が尊敬を生み出してしまう。尊敬とは、理解の結果ではなく、雰囲気によって形成されることがあるのだと気づかされます。 一方で、身近にいる人を尊敬することは驚くほど難しいものです。どれだけ努力し、責任を果たし、困難に耐え続けていても、近くにいるというだけで価値を感じにくくなってしまう。ときには低く見たり、当たり前と片づけたりさえしてしまう。社会の荒波に立ち向かい、正しさのために声を上げる人でさえ、「変わった人」と扱われてしまうことがあります。 しかし、尊敬とは本来、そうした身近なところに芽生えるものなのではないでしょうか。 たとえば、街角のラーメン屋の店長。お店を続けることがどれほど大変かを知れば、その忍耐と工夫と責任感は、胸が熱くなるほど尊いものです。家族を支える人、会社を守る人、静かに信念を貫く人。彼らは派手ではありませんが、確かな重みを持っています。 私は、遠くの誰かではなく、身近な人の努力や苦労を感じ取り、尊敬できる自分でありたいと思います。理解できなくても尊敬してしまうという人間の性質を知ったうえで、なお、目の前の人の価値を感じ取れる心を持っていたいです。

神から力へ、そして感性へと向かう宇宙観

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宇宙を司るものは何かという問いに対して、人類は長い時間をかけて答えを変化させてきました。太古の人々は、それを「神」と考えました。雷も風も日食も、人知を超えた現象は「神意」として受け止められ、人は畏れとともに秩序を感じ取って生きていました。しかし科学が登場すると、世界の理解は大きく転換しました。現象は「力」によって説明できると考えられるようになり、日食は不吉ではなく、天体の位置関係によって起きる自然現象として受け止められるようになりました。科学は、説明できないものに対する不安を消し去る役割を果たし、人々は「見える世界」を安心して理解できるようになったのです。 ところが科学が発展すればするほど、説明できる領域の裏側に、説明できない領域がより輪郭を持って現れてきました。「意識」とは何か。「なぜ世界を感じ取れるのか」。そして「創発」はどのように生まれるのか。要素を分解し、法則で記述し、因果で説明しようとするほど、力だけでは到達できない問いが濃密さを増していきます。 創発という現象を考えると、それは要素そのものではなく、要素間に生じる「関係性」から生まれます。しかし「関係性」とは、単なる配置ではありません。そこには働きかけと応答があります。もし要素が完全に無感受であったなら、「関係」は成立せず、宇宙はこれほど複雑にも美しくも発展しなかったはずです。むしろ宇宙には、秩序を形づくろうとする働き、つまり「意思」が息づいていると考えるほうが自然です。偶然の積み重ねだけでは、人間ほどの知性や、美と神秘を湛えた宇宙は生まれなかったでしょう。 この視点に立つと、私たちが「感性」を科学に取り込む必要が見えてきます。「感性」とは、定義によって理解するのではなく、感じ取り、意味を読み取る力です。世界とは、自分の外側だけで成立しているのではありません。意識の内側で生成される像と、外側の現象が重なり合って立ち上がります。物質宇宙と意識宇宙は裏表の関係にあり、「存在」と「認識」は切り離せません。この構造を理解するための回路こそが「感性」なのです。 ところが科学は「意識」や「認識」という語を避けがちです。神を退け、目に見えるものだけを扱う体系として成立してきた歴史が、その理由を物語っています。しかし、科学だけに世界理解の鍵を委ねる時代は終わりつつあります。意味を読み取り、世界と共鳴し、創発を感じ取る力が...