熱間鍛造でクルマのパーツをつくっているところの動画 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 05, 2017 熱間鍛造でクルマのパーツをつくっているところの動画。これほどの製造技術が確立されるまでには、気が遠くなるほどの試行錯誤の繰り返しがあったことでしょう。偉大なる先輩技術者に対して尊敬の気持ちが湧いてきます。 ソース元:環境ビデオのような、美しい熱間鍛造の動画です リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
理性から感性へ ~日本的空間の示す転換~ 10月 31, 2025 私はずっと前から、時代は理性から感性へと移行していくと感じてきました。その理由を、チームラボ代表・猪子寿之さんがTEDで語った「日本文化と空間デザイン」の話を通して考えてみたいと思います。 日本文化と空間デザイン~超主観空間~ | 猪子 寿之 | TEDxFukuoka この講演はもう10年以上前のものですが、彼が語った内容は今なお深い示唆を与えてくれます。彼はそこで、西洋と日本では「空間の見方」が根本的に異なると述べています。 西洋では、世界をひとつの視点から捉える「パースペクティブ(遠近法)」が発達しました。画面の中には必ず「見る主体」が存在し、その視点から見た世界を描く。この構造の中では、世界はつねに「自分の外側」にあります。自分と世界、自分と他者、自分と自然。すべてが分離され、客観的に観察・制御される対象として置かれる。それは、科学や技術、そして近代的理性の発展を支えてきた大きな基盤でもありました。 一方で、昔の日本人の空間認識はまったく違いました。日本画には明確な視点がなく、画面の中に複数の時間と空間が同時に存在しています。それは「レイヤー状の世界」ともいえる構造で、そこでは「見る者」と「見られるもの」が溶け合っています。つまり、自分と世界のあいだに境界線が存在しない。人間は自然の中の一部であり、世界そのものと共に息づく存在だったのです。 この違いは、建築を見ても明らかです。西洋建築は壁によって外と内を明確に分け、強固な構造体としての「箱」を作ります。一方、日本建築では、外と内の境界はきわめて曖昧です。柱と梁で支えられた開放的な空間に、障子や縁側といった可動的な仕切りが置かれ、風や光や音が自然に通り抜けていく。建物は「閉じるもの」ではなく、「自然とつながるための場」として設計されているのです。 このような空間観の違いは、単なるデザインや技術の差ではなく、人間の世界の認識構造そのものの違いを表しています。西洋的な空間認識は、「分ける」ことを前提にしています。そこでは主体と客体が分離され、世界は「自分とは別のもの」として管理される。その意識が進むと、社会のあらゆる領域で「分断」と「支配」が強化されていきます。自然は制御すべき対象となり、経済は競争を前提に動き、人間関係も利害で切り分けられていく。こうして生まれたのが、いま私たちが生きている「理性の文明」です。 ... 続きを読む
ウサギを追う人、鹿を待つ人 11月 07, 2025 ルソーの「鹿狩りの寓話」は、人間の協力と信頼のあり方を象徴しています。複数の人が協力すれば、大きな利益が得られる鹿を狩ることができる。けれども、その協力が成立するには、お互いを信じ、待つことが必要です。ところが、仲間を信じきれない者が、目の前に現れたウサギを追ってしまう。結果、鹿は逃げ、皆が失う。この寓話は、社会の意思決定や組織の行動にも通じるものがあります。 多くの人はこの物語を「理性的に協力することの大切さ」と読みます。ここでの理性とは、本能に流されず、互いに協力する知恵のことです。しかし、私がここで使う理性という言葉は、もう少し異なる意味を持ちます。それは、論理的・合理的に判断し、数値化できる確実性を優先する思考です。 理性的な人は、未来を予測し、効率や成果を重視します。その力は社会の発展を支えてきました。しかし、現代ではその理性が、制度や経済の仕組みの中で「短期化」しています。株主至上主義や四半期決算、即時評価といったシステムが、長期的な価値よりも短期的な成果を優先するよう促しているのです。本来、理性は未来を描くための力であったはずなのに、いまは「すぐ結果を出すための合理性」へと押し込められてしまっている。 一方、感性の人は、時間を線としてではなく「場」として感じ取ります。数字にならない気配や流れを察し、全体の調和の中で動く。森の静けさ、仲間の息づかい、鹿が現れる気配。そうしたすべてをひとつのリズムとして受け取りながら行動する。感性にとって「待つ」とは、何もしないことではなく、世界の流れに耳を澄ませながら、自分の動きを合わせる能動的な行為なのです。 理性が分析によって未来を描くなら、感性はつながりの中で未来を感じ取る。どちらが優れているということではなく、理性が切り分けた世界に、感性がもう一度「全体」を取り戻すのです。 現代社会は、理性の成果によって繁栄してきました。けれども、その理性が環境や人間の心のリズムから乖離しはじめている。ウサギを追う速さばかりが増しても、鹿がどこにいるのか、森の気配そのものを感じ取れなくなっているのです。 いま私たちに求められているのは、理性を否定することではなく、理性の中に感性を取り戻すことです。すばやく動きながらも、全体の流れを感じ取ること。それが、ウサギを追いながら鹿の気配を感じる生き方です。 続きを読む
要素還元を超える科学 11月 09, 2025 これまでの科学は、現象を理解するためにそれを分解し、最小単位まで還元することで真理に近づこうとしてきました。この「要素還元的アプローチ」は、ニュートン以来の近代科学の基本姿勢であり、世界を「部分の総和」として捉える世界観に支えられてきました。 しかし、このやり方では説明できない現象があります。たとえば、意識や感情、文化のような高次の現象です。それらは、どれほど小さな単位に分解しても、その内部には存在しません。なぜなら、それらは要素の中にではなく、要素と要素の間の相互作用、すなわち関係性の中でのみ生まれるからです。 ここで重要なのは、「関係性」そのものが新しい性質を生み出すという点です。要素が結びついた瞬間、全体は単なる集まりではなく、新しいふるまいを持つ一つの系となります。 「創発」とは、まさにこの「関係の中」で起きる出来事です。一つひとつの細胞には感情はありません。しかし、多数の細胞が結合し、相互に信号をやり取りするネットワークを形成したとき、人間には感情が生まれます。一人ひとりの人間には文化はありません。しかし、多くの人々が関わり、影響を与え合う社会を形成したとき、文化が生まれます。 このように、全体の性質は要素の内部にはなく、関係の構造に宿ります。それが「全体は部分の総和ではない」と言われる理由です。要素を切り離して観察する限り、創発は決して見えてきません。 だからこそ、これからの科学には方向転換が求められています。要素を分解して理解するのではなく、構築して理解します。これが「構成論的アプローチ」です。たとえば、意識を理解するために人工神経ネットワークのモデルを構築し、どのような条件で自己認識に似たふるまいが生じるかを観察します。あるいは、人間社会をモデル化し、多数のエージェントを相互作用させることで、文化や秩序がどのように生成されるかを検証します。 たとえ全体がブラックボックスであっても、条件と結果の関係を観察すれば、創発の原理を経験的に明らかにできます。重要なのは、全体を「説明する」ことではなく、再現し、共に生成していくことです。 これまでの科学は、構成要素を取り出して理解しようとしてきました。これからの科学は、要素を結び合わせ、全体のふるまいを探る方向へ進みます。それは、観察する科学から、創ることで理解する科学への転換です。 続きを読む
日本人と感性 12月 04, 2025 日本人ほど「感性」を軸に世界を読み取る民族は珍しいと思います。それは単なる情緒文化ではなく、世界をどう捉え、どう創造するかという「認識方式」そのものです。 ピーター・ドラッカーは「すでに起こった未来」第11章で、日本の画家について興味深い指摘をしています。「日本の画家は空間をまず見て、線を見るのはその後である。線から描きはじめることはない」。これは対象を「パーツ」へ分解して理解する西洋とは対照的です。日本人は、まず全体の雰囲気や気配を受け取り、その中から線が自然に立ち上がってくる。つまり部分ではなく、全体のふるまいを先に感じ取ってしまう民族なのです。 私は、この特徴こそが日本人の本質的な強みだと考えています。 近代の科学は、世界を要素へ分解することで発展してきました。しかし21世紀は、個々の「要素」よりも、要素間の「関係」が世界を動かしています。創発、複雑系、ネットワーク、文脈。どれも「全体のふるまい」を見なければ本質に触れられません。 これは、複雑系科学が示すように、要素そのものではなく、要素が結びついたときに生まれる「全体のふるまい」こそが本質である、という現代の理解とも共鳴します。 そして、日本人は歴史的にその認知能力を使い続けてきました。日本庭園の余白の扱い、茶道の「間」、工芸に宿る素材との対話。美は物の形にあるのではなく、物と物の「あいだ」に宿る。そこに立ち上がる全体の調和を感じ取ることが、日本人の感性の核です。 今、世界はこの「日本的感性」を必要としはじめています。AI、ロボティクス、分散システム、創発的デザイン。どれも要素分解の論理だけでは届かず、全体の振る舞いを「感じる力」が求められています。 理性は秩序を記述しますが、感性は秩序を生み出します。二つが共鳴したとき、新しい科学も、新しい創造も立ち上がる。日本人はその両方を同時に扱える素地を文化的に持っています。 私は、日本人の感性こそが、これからの時代に必要とされる「未来の知性」の原型になると感じています。そして、その視点を言語化し、現代に接続していくことが、いまの私たちの役割なのだと思います。 続きを読む
世界は脳が作った像にすぎない 11月 24, 2025 私たちは世界を見ているのではない。脳が生成した像を「世界だ」と信じているだけだ。にもかかわらず、その事実を自覚して生きている人はほとんどいない。まるで自分が外界そのものを捉えているかのように錯覚している。 チームラボの猪子寿之さんは、西洋の絵画は遠近法によって「視点を固定した世界」を描くのに対し、日本の絵画はそうではないと言った。日本の絵は、複数の視点・時間・空間が同時に存在する「超主観空間」であり、見るものと見られるものが溶け合っている。その話を聞いた瞬間、私は気づいたのだ。世界の「見え方」とは文化がつくったアルゴリズムであり、脳はそれに従って現実を合成しているにすぎない。 黄色い花があるとしよう。誰もが黄色と答えるだろう。しかし光の波に「黄色」は存在しない。黄色を生成しているのは脳だ。そして、その黄色は、生物としての普遍性ではなく、文化が共有してきた「こう見えるはずだ」という合意の上に構築されている。 つまり、脳の知覚アルゴリズムは個体に内在する固定的なプログラムではなく、文化や時代が長い時間をかけて脳に上書きしてきた「世界の作り方」でもある。 遠近法の発明以前、人類は「奥行きのある空間」をそもそも認識していなかった。古代ギリシア人は「青」の概念をほとんど持たず、海を「青い」とは認識していなかった。これらはすべて、世界の見え方は文化的アルゴリズムによって決まるという事実の証拠である。 だとすれば、古代の壁画が私たちには稚拙に見えても、当時の人々には十分リアルだった可能性が高い。彼らは私たちとはまったく異なるアルゴリズムで世界を合成していたのだ。「リアルとは何か」という問いそのものが、文化と脳の相互作用によって作られている。 しかし、私たちはこの構造にほとんど気づかない。なぜなら、脳はアルゴリズムの存在を隠蔽するように働くからだ。透明な水の中にいる魚が水を認識できないように、人は「自分の認識方式」を認識することができない。 そして現代では、西洋的な視点固定型のアルゴリズムが世界の標準となり、私たちの脳はその方式に合わせて世界を描くように訓練されてしまった。まるで、唯一無二の現実がそこにあるかのように。 しかし現実は逆だ。世界が一つなのではない。世界をつくるアルゴリズムが一つに揃えられただけだ。 本来、人間が世界を認識する方式はもっと多様だった。もっと揺らぎ、もっと... 続きを読む