熱間鍛造でクルマのパーツをつくっているところの動画 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 05, 2017 熱間鍛造でクルマのパーツをつくっているところの動画。これほどの製造技術が確立されるまでには、気が遠くなるほどの試行錯誤の繰り返しがあったことでしょう。偉大なる先輩技術者に対して尊敬の気持ちが湧いてきます。 ソース元:環境ビデオのような、美しい熱間鍛造の動画です リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
要素還元を超える科学 11月 09, 2025 これまでの科学は、現象を理解するためにそれを分解し、最小単位まで還元することで真理に近づこうとしてきました。この「要素還元的アプローチ」は、ニュートン以来の近代科学の基本姿勢であり、世界を「部分の総和」として捉える世界観に支えられてきました。 しかし、このやり方では説明できない現象があります。たとえば、意識や感情、文化のような高次の現象です。それらは、どれほど小さな単位に分解しても、その内部には存在しません。なぜなら、それらは要素の中にではなく、要素と要素の間の相互作用、すなわち関係性の中でのみ生まれるからです。 ここで重要なのは、「関係性」そのものが新しい性質を生み出すという点です。要素が結びついた瞬間、全体は単なる集まりではなく、新しいふるまいを持つ一つの系となります。 「創発」とは、まさにこの「関係の中」で起きる出来事です。一つひとつの細胞には感情はありません。しかし、多数の細胞が結合し、相互に信号をやり取りするネットワークを形成したとき、人間には感情が生まれます。一人ひとりの人間には文化はありません。しかし、多くの人々が関わり、影響を与え合う社会を形成したとき、文化が生まれます。 このように、全体の性質は要素の内部にはなく、関係の構造に宿ります。それが「全体は部分の総和ではない」と言われる理由です。要素を切り離して観察する限り、創発は決して見えてきません。 だからこそ、これからの科学には方向転換が求められています。要素を分解して理解するのではなく、構築して理解します。これが「構成論的アプローチ」です。たとえば、意識を理解するために人工神経ネットワークのモデルを構築し、どのような条件で自己認識に似たふるまいが生じるかを観察します。あるいは、人間社会をモデル化し、多数のエージェントを相互作用させることで、文化や秩序がどのように生成されるかを検証します。 たとえ全体がブラックボックスであっても、条件と結果の関係を観察すれば、創発の原理を経験的に明らかにできます。重要なのは、全体を「説明する」ことではなく、再現し、共に生成していくことです。 これまでの科学は、構成要素を取り出して理解しようとしてきました。これからの科学は、要素を結び合わせ、全体のふるまいを探る方向へ進みます。それは、観察する科学から、創ることで理解する科学への転換です。 続きを読む
意識はどこにあるのか ~連携としての生命~ 1月 18, 2026 人間が「死んだ」と判定されるとき、その基準として心臓の停止が用いられることがあります。しかし、心臓が止まったことそのものが、直接的に死を意味しているのでしょうか。むしろ重要なのは、心臓の停止によって血液の循環が失われ、身体全体を一つにまとめていた連携が維持できなくなる点にあるように思えます。心臓は生命のスイッチではなく、循環を成立させる装置であり、その循環が失われたとき、人間という全体は成立しなくなるのです。 この視点に立つと、死とは要素が壊れることではありません。心臓が止まった直後に、すべての細胞が一斉に消えてしまうわけではなく、しばらくの間は生き続けている細胞もあります。それでも私たちは、その状態を人間の死として扱います。これは、個々の要素が残っていても、それらを一つの存在として束ねていた連携や同期が失われたからだと考えられます。死とは破壊ではなく、連携がほどけていく現象だと言えるでしょう。 人間の身体は、血液だけで成り立っているわけではありません。細胞内液や細胞間液、電解質、神経、ホルモン、そして水を多く含む結合組織など、無数の流れが重なり合って存在しています。これらは命令を伝えるというよりも、状態を共有し、全体を同じ方向に揃える役割を果たしています。こうした多層的な連携によって、無数の細胞は一つの人間として振る舞うことができるのです。 意識についても、同じ構造があるのではないかと思います。意識は、肉体に魂が宿ることで突然生まれるものではなく、細胞や分子、さらに小さな要素にまで遍在しているものだと考えられます。人間の意識とは、それら無数の微小な意識が、循環と同期によって束ねられた状態にすぎません。血液や体液の流れは、意識を生み出すのではなく、意識を一つにまとめる働きをしているのです。 この構造は、会社や組織にも当てはまります。社員一人ひとりや各部門が正常に機能していても、それらを連携させる流れが失われれば、組織は成果を生み出せなくなります。情報が循環せず、判断が共有されず、意図が揃わない状態は、壊れてはいなくても、死に近い状態だと言えるでしょう。成果とは、個々の能力の総和ではなく、連携の結果として立ち上がるものだからです。 生きるとは、要素を集めることではなく、流れを保ち続けることだと思います。意識とは実体ではなく、連携と循環が生み出す状態そのものです。死とは... 続きを読む
世界の究極の支配者は誰か 1月 19, 2026 私は時々、この世界を支配している究極の存在は誰なのか、世界の頂点に立つものは何なのか、そんなことを考えることがあります。しかし、その問いを突き詰めていった先に何があるのかを考えると、結局のところ、それ自体はあまり意味のある問いではないのかもしれない、と思うようになりました。 なぜなら、私たちが「世界の支配構造」と呼んでいるものは、実は私たち自身の精神構造そのものではないか、と感じるからです。仮に、どこかに究極の支配者が存在し、その者が自分の思うままに人々を支配しているとします。私たちはその存在を非難し、叩き潰し、排除しようとするでしょう。しかし、そのときに働いている私たちの精神は、支配者の精神と本質的に同じではないでしょうか。自分の正しさを掲げ、相手を否定し、排除する。その構造自体が、すでに支配の論理だからです。 そもそも、善悪というものは絶対的に存在しているのでしょうか。私はそうは思いません。善悪とは、あらかじめ世界に備わっているものではなく、それぞれの人の認識の中に生まれるものです。世界はただ在るだけであり、そこに善悪の意味づけをしているのは、私たち一人ひとりの認識作用です。経験や知識、積み上げてきた判断基準、生まれながらに持っている性質、そうしたものがフィルターとなって、「ただ在るもの」を見ています。 その意味で、私たちは基本的に錯覚の中で生きています。自分の認識作用が生み出した世界を、あたかもそれが唯一の現実であるかのように信じて生きている。しかし、だからといって、この社会の支配構造をそのまま放置してよい、という話にはなりません。私が言いたいのは、支配者を批判し、排除すれば問題が解決する、という単純な話ではないということです。精神構造が変わらないかぎり、支配者を入れ替えただけで、同じ構造が何度でも繰り返されるからです。 では、何を変えなければならないのか。それは、私たちの認識作用そのものです。これは「観点」と言い換えてもよいでしょう。その観点を通して見た世界こそが、それぞれの人間にとっての宇宙です。観点が変わらないかぎり、世界も変わらない。この観点を健康にすることこそが、究極の解決なのだと私は考えています。 ここで、いつも私が話している「感性と理性」の問題が浮かび上がってきます。現代社会では、多くの人が世界を「理性」というフィルターを通して見ています。理性は... 続きを読む
年頭にあたり ~わかって生きるために~ 1月 02, 2026 私は今、人々が本当に求めているものは「意味」なのではないかと感じています。便利さでも、豊かさでも、効率でもない。それらを手に入れた先で、私たちは次に何を支えに生きればいいのか、その答えを探しているように見えます。 振り返れば、私たちの社会は長いあいだ「貧しさからの脱却」という側面を強く持ちながら進んできました。貧しいことは苦しいことではあるのですが、それが生きる「意味」としての役割も果たしていました。生き延びるために働く。家族を守るために動く。その行為そのものが、疑いようのない意味を持っていたのだと思います。 しかし、ある程度その目標が達成された社会では、生きること自体が前提になります。その瞬間、「なぜ生きるのか」という問いだけが、取り残されるのです。物質的には満たされているのに、どこか空虚さが残るのは、その問いに答えを持たないまま日々を過ごしているからではないでしょうか。 これまでの社会は、この問いに正面から向き合うことをあまりしてきませんでした。理性を重視し、測れるもの、説明できるもの、再現できるものを価値の中心に据えてきたからです。その結果、意識や感覚、直感、意味といった数値にならないものは、扱いにくい存在として脇に置かれてきました。 しかし、それらは存在しないわけではありません。むしろ、人が何を選び、何に心を動かされ、何に価値を感じるかは、そうした領域によって決定されています。それを「測れない」という理由だけで切り捨ててきたとしたら、それは合理的というより、乱暴な態度だったのではないかと私は思うのです。 理性だけで捉えられた世界では、人間は物質となり、できごとはすべて物理現象や化学反応として説明されます。それは正しい側面もありますが、その世界観だけでは、「人はなぜ生きるのか」「この世界は何なのか」という根源的な問いに答えを与えることはできません。そのままでは、私たちは意味を持たないまま「とりあえず生きる」しかなくなってしまいます。 意味のない合理性は、人を長く動かし続けることができません。やがて生きるエネルギーは枯渇します。だからこそ今、感性があらためて重要になっているのだと思います。感性とは、世界を意味あるものとして受け取る力です。出来事に意味を与え、行為に納得を与え、生きることそのものを内側から支える力です。 これからの時代に求められているのは、理性か感... 続きを読む
流率法から世界を読み解く 11月 23, 2025 世界を見つめていると、あらゆる現象には「ただそこにある」という固定された実体よりも、絶えず移りゆく「流れ」のほうが本質ではないかと感じることがある。天気も、人の感情も、社会の変化も、一瞬として同じ形を保たない。それにもかかわらず、まるで混沌のまま散り散りに消えてしまうわけではない。そこには、変化を変化のまま成り立たせている、ある種の秩序のようなものが感じられる。 私が「流率法」という言葉に惹かれる理由は、この「変化の中の秩序」を捉える視点を与えてくれる点にある。流率法とは、ものごとがどのように移り変わり、どのように形を整え、どのように次の状態へ向かっていくのか。その背後にある「流れの質」と「変化のしかた」を読み解こうとする態度である。 たとえば、川の流れを眺めていると、表面の水は絶えず新しく入れ替わっているのに、川のかたちそのものは大きく崩れない。季節が移ろうときも、変化そのものは予測できない揺らぎを含みながら、一定の周期性をともなって訪れる。この「変わるのに壊れない」という不思議な現象は、自然だけでなく、人間の思考や文化の変化にも見て取ることができる。 流率法は、こうした現象を「静止した実体」ではなく、「変化が形をつくる」という視点から理解しようとするものだと考えている。 私たちはしばしば、ものごとを安定した状態として理解しようとする。しかし実際には、安定もまた変化の産物であり、ある特定の流れが作り出した暫定的な姿に過ぎない。変化そのものが秩序を生む。その秩序は流れの中にある。流率法は、そうした世界の捉え方を私たちに促してくれる。 さらに言えば、流れ方には、それぞれ固有のリズムがある。一定の方向性が生まれるときもあれば、揺らぎが生じて形がゆるむときもある。それを「偶然」と片付けず、その背後にある「動きの質」として捉えようとすると、世界の見え方は驚くほど変わる。 私たちが日常で出会う変化、たとえば、人との関係、思考の癖、仕事の流れ、創造の瞬間・・。これらも、ただの出来事の連続ではなく、一つの大きな流れの中にあるのだと思えてくる。その流れを見ようとするとき、私たちは初めて「変化を制御する」のではなく、「変化とともに在る」ことができる。 流率法は、世界を数学的に説明するための技法ではなく、むしろ、世界の成り立ちを「流れとして見る」ための感性を磨く道具である。その視点を持... 続きを読む