風の谷のナウシカと社会的共通資本(その2)
風の谷のナウシカとコロナ危機を重ねながら、これからの社会について考える中で、宇沢弘文さんという人の「社会共通資本」という思想と出会った。
この思想は、市場経済が深く浸透する社会で、「人間」や「社会」はどうあるべきかという課題意識から生まれたものだという。
古典的な経済学では、もともと自然環境はいわゆる自由財として、誰でも対価を支払わず自由に使用できるものとされた。経済活動の水準が低い頃はそれで問題がなかったのだが、各国の経済活動が活発になるにつれ、大きなほころびが出てきた。
そこで宇沢さんは、以下の3つの資本を社会的共通資本とし、それらは市場原理主義が及ぶべきではないと考えた。
1つ目は、大気、河川、海洋、森林などの「自然資本」
2つ目は、道路、公共交通機関、上下水道、電力などの「社会資本」
3つ目は、病院、学校教育、医療、金融、司法、行政などの「制度資本」
私はこの宇沢さんの思想を極めて素直に受け入れることができる。なぜかというと私は以前から西洋と東洋の違いからそれを感じていたからだ。
これはとても自覚しにくいことなのだが、西洋では「人間の周りに自然がある」という考え方が根底にあり、東洋には「自然の中に人間がある」という考え方が根底にある。
なので日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化して存在している。
しかし西洋ではそれが逆で、個は自然環境を自分の幸福のために好き勝手に使っていいという考え方がある。それどころか自然環境を征服すべき対象として見ているところがある。
実際、1980年代にアメリカのミルトン・フリードマンらが唱えた「新自由主義」は、世界に広く普及し今もなお、私たちの社会に根付いているが、この思想は、大気や海の水までも私有制が導入され、徹底した市場メカニズムにまかされている。したがって、前述の社会的共通資本は根源から否定されてしまっているのだ。
だからどうしても自然環境への感謝と配慮を怠ってしまい、結果、その維持費以上の莫大な損失を生み出してしまっているのだ。
だからこそ私は、人間の周りに自然があるのではなく、自然の中に人間があるという感覚が必要だと思う。一見なんでもないようなことだが、これは大きな違いである。
この宇宙は何もないところから作られた。何もない宇宙から銀河が生まれ、銀河から太陽系が生まれ、太陽系から地球が生まれ、地球から人間が生まれた。一本の木が根っこから幹、枝、葉、花、実、種というように育っていくのと同じようにこの宇宙は進化発展してきたのだ。(続く)