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9月, 2023の投稿を表示しています

目に見えないものを大切にする生き方

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私は高校生の頃から、宇宙を理性だけで説明することは不可能だと感じてきた。138億年もの長い年月をかけて創造されたこの壮大な宇宙を、人間の浅知恵だけで説明できると考えるなんて奢りが過ぎる。そう感じてきた。 そのせいか、理性を万能とする考え方や、理性で説明のつかないものを軽視する考え方に触れると、どこか違和感を感じてしまう。たとえば今、過度なグローバリゼーションが各国の多様な伝統や文化を消し去って、画一化しようとする風潮を感じるが、理性で説明できないからといって、それを消し去ってしまってよいものだろうか。その国の人々にとっては何か大切な意味があるだろうから、これからも大切にしていくべきではないか。 流行り病に対する姿勢にも違和感がある。単に理性的な対応だけでは問題の本質に触れられないのではないか。その病気との分離を生むような考え方はやめ、人類にとって一体どのような意味があるのだろうかというような大局的な視点を持ち、共生の道を探る姿勢が必要ではないか。 私たち人間は、様々な事象に境界線を引いてそこに名前と意味・価値をつけている。それが無自覚で人間がやっている認識方式だ。元来そのように認識することは宇宙の目的であった。自分を認識するためだ。しかし理性的な考え方が行き過ぎた結果、喜びよりも苦しみのほうが遥かに大きくなってしまった。私たちは、それぞれの存在が分離独立して本当に「有る」と思い込み、そして、まるでこの3次元空間が世界の全てであるような錯覚をしてしまっている。 この世界は目に見えるものが全てではなく、目に見えないものこそ本質だ。目に見えない世界から、目に見える世界が生み出されており、分離のない世界から、分離しているように見える世界が生み出されている。そして私たちは、心を持った人間ではなく、人間の形をした心であり、この3次元空間の檻の中に閉じ込められた存在ではなく、もっと偉大で尊厳ある存在なのだ。私にはそう思えてならない。 世界は今、物質文明から精神文明へと移行している。その動きはもう何十年も前から始まっている。しかしそれが目に見えて実感できないのは、物質文明において頂点の立場にいる人たちが、精神文明に移行していくのを、もう少しだけ、もう少しだけと、延命措置を何度も繰り返しているからだ。きな臭い出来事が世界中で多発しているのは、それが理由だろう。 しかし時代は、物質文明

AIは人間にとって脅威か

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「モノと心は表裏一体である。」この考えが記号接地問題を解決するヒントになるのではないかと 先日書き込みました 。これはどういうことかということを自分なりに説明してみます。前回同様、専門家ではない私が考えても意味はないけれど書いてみます。 まず、大前提として私たちは仮想空間の中で生きているということです。これはコンピュータ上の仮想空間のことではなくて、いま現実と感じているこの世界が実は仮想空間だということです。私たちが見ている世界は、脳で処理した結果であって、真実そのものではありません。脳が処理する前の世界を「物理世界」とすると、脳が処理した後の世界は「意識世界」です。仮想空間は、その両方の世界が表裏の関係で成り立っており、すべての存在は物質でもあり意識でもあります。そこで「モノと心は表裏一体」という考えが出てくるわけです。 これをリンゴの赤い色を例に説明してみます。私たちはリンゴの表面に赤い色が存在していると思い込んでいますが、実際にはそこに存在していません。人間の目がリンゴからの光を受け取り、脳でデザインして赤という色を創り出しています。また、リンゴが立体的に見えるのは、私たちが過去にリンゴを色々な角度から見たり触ったりを繰り返しており、その記憶を参照して立体化させています。 私たちはこうして仮想空間を創造し、それぞれが自分だけの仮想空間の中を生きています。ですから、私の思うリンゴの赤は他の人が思う赤とは異なるし、私の思うリンゴの感触と他の人の感触は異なります。一つの宇宙の中で多くの人が生きているのと同時に、固有の仮想空間が無限に重なった並行宇宙の中を生きています。 私たちはこの仮想世界を生まれてすぐに創造し始めます。様々なものを見たり触ったりして、五感を使いながら得た情報を元に、輪郭を抽出して部分を作り立体化させ、それぞれに対応した名前(記号)を覚え、さらに意味・価値も付加していきます。これは私たち一人一人が宇宙の創造主であることを意味します。この創造のプロセスこそが、AI用語で言うところの「記号接地」であり、言葉(記号)と身体感覚や経験とを繋げる(接地させる)プロセスであると言えます。 話を戻して、なぜ「モノと心は表裏一体」ということが記号接地問題の解決のヒントになるかというと、それを解決するには、「意識」が必要になるからだと思います。センサーを配置して条件に

ソニーの井深大さんの言葉と記号接地問題

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先日、「 ChatGPTがなぜバカになるのか 」という書き込みをしたのですが、それを解決するにはどうしたらいいかを考えていたら(私が考えても意味はないけれど)、ソニーの井深さんの言葉を思い出しました。井深さんは下記のような気になる言葉を残しています。 -- 私の考えるパラダイムってのは一体何であるか。現在、モノを中心とした科学が万能になっているわけですね。これはデカルトとニュートンが築き上げた『科学的』という言葉にすべての世界の人が、それにまんまと騙されて進んできたわけなんです。 それはどういうことかと言いますと、「デカルトがモノと心というのは二元的で両方独立するんだ」という表現をしている。これを話していたら1時間くらいかかるから、このぐらいにしておきますけど、モノと心と、あるいは人間と心というのは表裏一体である、というのが自然の姿だと思うんですよね。 -- 私たちは、存在というものが人間の認識とは無関係に存在すると考えがちです。でも実際はそうではないかも知れません。私たちが見ている世界は、脳で処理した結果であって、真実の姿ではない。脳で処理する前の世界と、脳で処理した後の世界では大きく異なるはずです。なのに私たちは、脳で処理した結果が真実だと思い込んでいます。井深さんの言葉を借りれば、デカルトとニュートンにまんまと騙されているわけです。存在というのは認識が働いて初めて存在として成立します。だから存在と認識、すなわち、モノと心は表裏一体である。そういうことを井深さんは言いたかったのだと思います。 その「モノと心は表裏一体」という考え方を取り入れれば、きっと量子力学における観測問題、つまり、観測をすると実験結果が変わるという難解な問題についても理解が進むと思いますし、そうだとすれば、万物の理論(統一場理論)の完成にも一歩近づけることができる気がします。 そして、ここで私が思い浮かべたのが、人工知能の「記号接地問題」です。人工知能の最大の難問とも言われている問題です。今話題の ChatGPT もこの問題は解決されていません。記号接地とは「言葉と身体感覚や経験とを繋げること」を意味します。よく例に出されるのが「シマウマ」です。人間は「シマ模様のある馬」という説明を聞けば、初めてシマウマを見た人でも「これがシマウマだ」と理解できますが、AIにとっては、単なる言葉(記号)の羅

ChatGPTはなぜバカになるのか

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先日、Youtubeを眺めていたら、「ChatGPT倒産危機」といった内容の動画が目にとまった。 その動画によると、ChatGPTは1日当たり約1億円もの維持費が掛かっており、採算が取れていないという。ユーザーの数も今年の6月には17億人を突破したが、その後1ヶ月も経たないうちに15億人まで減少し、今も離脱が続いているとのこと。 離脱が続いている理由は、ChatGPTが以前より馬鹿になっているからだそうだ。本来はユーザーが増えれば蓄積される情報も増えるので、利口になっていくと思われるのだが、逆に馬鹿になっていくらしい。実際、あるハッカーが、A1に9+10は21であると学習させた結果、最初はそれを否定していたが、説得し続けたところ、最終的には9+10は21と答えるようになったという。 Hackers Trick AI With ‘Bad Math’ to Expose Flaws and Biases (1) なぜAIが馬鹿になっていくのか、私はなんとなく思い当たることがある。 人間とAIの大きな違いは何か。いろいろあると思うが、その一つは「自分なりの価値観」「哲学」といったものをAIは持っていないということだと思う。たとえば、情報をもとに何らかの決断や判断をするとき、人間の場合はすべての情報を均等に扱わず、自分なりの価値観に基づいて情報を取捨選択している。ところがAIの場合は、そうした自分なりの価値観のようなものを持っていないから、取捨選択せずにすべての情報を均等に扱う。 さらにAIは、それらの情報が正しいかどうかを、エビデンスの有無で判断しているのだと思う。しかし、このエビデンスというのは私に言わせれば、あまりアテにならない。主張したい内容に合わせて無理やりにでも揃えることができるからだ。9+10は21であるといった、あり得ない主張にも、無理やりエビデンスを揃えることはできてしまうと思う。 私は、ものごとはエビデンスがあったとしても、それが正しいとは断定できないこともあると思う。多くの人はそれを知っていて、だからこそ、断定的な物言いをする人を見ると抵抗を感じるのではないか。でもAIにとっては、そういう感覚がないから、エビデンスさえ揃っていれば正しいと捉えてしまう。そしてそれらを集め融合しようとしたとき、どこかで矛盾が生じ、辻褄が合わなくなって、賢くなるどころか混乱

ホリエモンの話に違和感を感じるわけ

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海洋放出問題に関して、ホリエモンが山本太郎さんの意見を強く否定している動画を見た。私は詳しい知識を持っていないから、自分の意見を述べることはできないけれど、それでもホリエモンの話には違和感を持ってしまう。 言い方が酷いからとか、よくあんなに安全と断言できるなとか、そういうことも理由ではあるけれど、多分私は、もう少し深いところから違和感を感じているんだろうなと思う。 その違和感はどこから来るのだろうか。価値観とか判断基準が違うからというのもあるが、そもそも判断するときに使う「判断材料」が違うのかなと思う。 ホリエモンは科学や合理性を重視するタイプのように見える(たぶん)。それを理性重視タイプと呼ぶとすると、私はその反対の感性重視タイプだ。ホリエモンは「科学的には正しくても感情的には受け入れられない」と言う人は嫌いのようだけど、まさに私はそういうことを言うタイプで、直感や感覚を重視する傾向がある。 「直感」というと、理性重視な人からすれば、いい加減なものというイメージがあるのかも知れない。でも、言語化・数値化できないだけで、それこそ多くの情報を受け取った上での意見であって、決していい加減なつもりはない。これは言い換えればアナログとデジタルの違いのようなものだ。アナログのほうが情報量が豊かで、それを受け取ることができる人は繊細な感受性を持った人と言えると思う。でも、受け取れない人からすれば、それが「見えない何か」であり、得体が知れないものだから、気持ち悪さを感じるのかも知れない。 なので、理性重視の人は、得体の知れない何かよりも客観性のある情報を判断材料にするのだろう。一方、感性重視の人は、情報の「間」や背景を判断材料にする。今回のように意見が大きく分かれるのは、このように、互いに判断の材料となるものが異なるからだろう。私がホリエモンに感じる違和感は、こういうところから来ている気がする。 さらに、理性重視と感性重視では、結論を生み出すまでのアプローチも大きく異なると思う。理性を重視する人は、事実を確認し、そこから結論を導き出す。一方、私のような感性を重視するタイプは、最初に結論が思い浮かび、そのあとでその結論が正しいかどうかを知るために事実を確認する。前者は「部分から全体」へのアプローチであり、後者は「全体から部分」へのアプローチをとる。アプローチが全く逆なのだ。 私は「