目に見えないものを大切にする生き方
私は高校生の頃から、宇宙を理性だけで説明することは不可能だと感じてきた。138億年もの長い年月をかけて創造されたこの壮大な宇宙を、人間の浅知恵だけで説明できると考えるなんて奢りが過ぎる。そう感じてきた。 そのせいか、理性を万能とする考え方や、理性で説明のつかないものを軽視する考え方に触れると、どこか違和感を感じてしまう。たとえば今、過度なグローバリゼーションが各国の多様な伝統や文化を消し去って、画一化しようとする風潮を感じるが、理性で説明できないからといって、それを消し去ってしまってよいものだろうか。その国の人々にとっては何か大切な意味があるだろうから、これからも大切にしていくべきではないか。 流行り病に対する姿勢にも違和感がある。単に理性的な対応だけでは問題の本質に触れられないのではないか。その病気との分離を生むような考え方はやめ、人類にとって一体どのような意味があるのだろうかというような大局的な視点を持ち、共生の道を探る姿勢が必要ではないか。 私たち人間は、様々な事象に境界線を引いてそこに名前と意味・価値をつけている。それが無自覚で人間がやっている認識方式だ。元来そのように認識することは宇宙の目的であった。自分を認識するためだ。しかし理性的な考え方が行き過ぎた結果、喜びよりも苦しみのほうが遥かに大きくなってしまった。私たちは、それぞれの存在が分離独立して本当に「有る」と思い込み、そして、まるでこの3次元空間が世界の全てであるような錯覚をしてしまっている。 この世界は目に見えるものが全てではなく、目に見えないものこそ本質だ。目に見えない世界から、目に見える世界が生み出されており、分離のない世界から、分離しているように見える世界が生み出されている。そして私たちは、心を持った人間ではなく、人間の形をした心であり、この3次元空間の檻の中に閉じ込められた存在ではなく、もっと偉大で尊厳ある存在なのだ。私にはそう思えてならない。 世界は今、物質文明から精神文明へと移行している。その動きはもう何十年も前から始まっている。しかしそれが目に見えて実感できないのは、物質文明において頂点の立場にいる人たちが、精神文明に移行していくのを、もう少しだけ、もう少しだけと、延命措置を何度も繰り返しているからだ。きな臭い出来事が世界中で多発しているのは、それが理由だろう。 しかし時代は、物質文明