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3月, 2026の投稿を表示しています

理性は必要だが、中心ではいられない時代へ

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私は今、世の中で起きている大きなニュースを見ていると、それぞれが独立した出来事のようでいて、奥のほうでは共通した構造でつながっているように感じます。イランとアメリカ・イスラエルの対立、ホンダの巨額赤字、みずほFGの人員削減。分野は異なりますが、そこには同じ方向の変化が現れているように思えるのです。 まず国際情勢です。イランとアメリカ・イスラエルは、それぞれが正義を掲げています。しかし正義とは、自分と相手を切り分けたうえで成立する概念です。この分離を前提とした認識の中では、相手は「理解する存在」ではなく「対峙する存在」になりやすく、その結果として衝突が生まれやすくなります。理性は本来、物事を整理し理解するための重要な力ですが、その前提にある分離的な世界の捉え方が、対立を生みやすい構造につながっているのではないかと感じます。 この傾向は産業の変化にも見て取れます。ホンダの赤字は単なる業績の問題にとどまらず、ものづくりの構造の変化を示しているように思えます。内燃機関の時代には、設計だけではなく、最終的な仕上がりに人の感覚が大きく関わっていました。そこに企業や国ごとの「らしさ」が生まれていたのです。しかし電気自動車では、設計と制御の比重が高まり、再現性が高くなります。その結果、どこで作っても一定の水準に近づきやすくなり、差異はコストや条件に寄りやすくなる。この変化は効率化でもありますが、同時に感性が価値として現れにくくなる側面も持っています。 さらに、みずほFGの人員削減のニュースは、AIの進展と重なって見えます。これまで価値を持っていた事務処理や判断といった理性的な業務は、急速に機械に置き換えられつつあります。ここで起きているのは、理性が不要になるということではありません。むしろ、理性が広く共有され、誰もが使えるものになることで、それ自体では差になりにくくなるという変化です。 これらを通して感じるのは、理性の否定ではなく、その位置づけの変化です。理性はこれからも不可欠なものですが、それを中心に据えたままでは、対立を生み、差異を失い、価値を持ちにくくなる局面に入っているように思えます。 その中で重要になるのが、感性や直観といった、人と世界の関係性を切り分けずに捉える力です。これは理性と対立するものではなく、理性では扱いきれない領域を補完するものです。自分と世界の境界を強く引...

善悪で世界を分ける思考が自らを滅ぼす

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最近のイランをめぐる戦争のニュースを見ながら、私はあることを強く感じています。それは、人類が長く信じてきた「善悪の二元論」が、いま限界に近づいているのではないかということです。 中東には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの一神教が生まれ、広がってきました。いずれも唯一絶対の神を信じ、その神の正義を重んじる宗教です。もちろん、これらの宗教の歴史には共存してきた時代もありますし、現在の争いの原因が宗教だけにあるわけではありません。政治や領土、資源など、さまざまな要因が重なっていることは確かです。ただ、それでもなお、人々が自分たちの正義を強く信じ、その基準で世界を見ようとする構造が衝突を生みやすいことは否定できないように思えます。 ここで私は、善と悪というものについて改めて考えてみたいのです。善悪とは、最初から宇宙に存在していた絶対的なものなのでしょうか。むしろそれは、人間が社会をつくり、多くの人が同じ場所で暮らすために生み出してきた一種の秩序や約束事なのではないでしょうか。地域が違えば歴史も文化も異なり、そこにはそれぞれの価値観があります。言い方を変えれば、私たちはそれぞれ異なる世界観の中に生きているとも言えるでしょう。 それにもかかわらず、人はしばしば自分の価値観を普遍的なものだと思い込み、その基準で他者を裁こうとします。そして理解できない相手に対して「悪」や「ならず者」といった言葉で単純化してしまいます。しかし、そのように相手を決めつける側もまた、自分の価値観を絶対視しているという点では同じ構造の中にいるのではないでしょうか。 今回の戦争を見ていると、私はある意味で奇妙な構図を感じます。互いに正義を掲げながら争っている国々は、実は同じ思考の枠組みの中にいるのではないかということです。善と悪をはっきりと分け、その基準で世界を裁こうとする思考です。そう考えると、いま起きている戦争は、善悪二元論で世界を見る人たちの自滅を、彼ら自身が行っている出来事のようにも見えてきます。 私はこうした発想の背景に、世界を固定されたものとして捉える思考があるように感じています。価値観や正義を、まるで動かない物体のように扱ってしまう考え方です。しかし本来、人間の価値観も社会の秩序も、歴史の中で変化し続ける流動的なもののはずです。 般若心経には「不生不滅、不垢不浄、不増不減」という言...

私たちが閉じ込められている「観点の檻」

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先日、YouTubeで僧侶が視聴者の人生相談に答える動画を拝見しました。現代の駆け込み寺とも言える光景でしたが、その内容に、私は少しだけもったいなさを感じてしまったのです。そこで語られていたのは、既存の道徳や「常識」という枠組みに沿った善悪論だったからです。本来、般若心経が説く「空」の智慧とは、私たちが絶対的だと信じている価値観に実体がないことを見抜き、一段高い次元へと解き放たれることではなかったでしょうか。 私たちは「不倫は悪だ」「公共の場での通話はマナー違反だ」と即座に断じます。しかし、その「嫌悪」の正体が何であるかを自らに問うことは稀です。例えば、電車内での通話が忌避される一方で、同じ音量の対面会話は許容される現象があります。認知科学的には、片方の声しか聞こえない「ハーフローグ」が脳に予測不能なストレスを与えるからだと説明されますが、多くの人はその仕組みを知らぬまま、ただ「マナー」というラベルを貼って思考を停止し、相手を糾弾してしまいます。 不倫や浮気に対する嫌悪も同様です。それは単なる道徳の問題なのでしょうか。人類が生存と繁殖を確実にするために進化の過程で組み込んだ、パートナーを独占しようとする生存本能の裏返しではないでしょうか。美味しいと感じる味覚が生存に有利な栄養素を求めた結果であるように、私たちの感情もまた、進化の産物としての「反応」に過ぎないのです。 歴史を遡れば、戦国時代には人を殺めることが武功として称えられました。時代や環境が変われば、正義と悪の定義は容易に反転します。般若心経は、そうした「観点の檻」から解き放たれ、執着のない「彼岸」へと向かうことを説いています。僧侶の本来の役割とは、世俗のルールを補強する道徳家であることではなく、相談者が囚われている檻の鍵を開け、真の自由へと導くことにあるはずです。 常識、マナー、法律。それらは社会を円滑に回すための暫定的な合意事項に過ぎません。私たちが真に「よりよい社会」を築こうとするならば、反射的な善悪の判断を一度保留し、なぜそう感じるのかという感情の源流を見つめ直すべきです。固定観念という檻を抜け出した先にこそ、形骸化した正しさに縛られない、本質的な知性が宿るのだと信じています。