女性性と日本
「女性性」とは何か。私がすぐに思い浮かぶのが、宮崎駿監督の映画。彼の映画は、主人公に女の子をもってくることが多い。その理由を考えたときに、女性性とは何かということが私の中で明確になる。もしあの映画の主人公が男の子だったらどうなるか。たぶん、スリリングでユーモアもあって、エキサイティングな内容になるとは思う。だが、「面白かったね」で終わる。ただそれだけの映画になってしまう。感動が持続せず、心の中に残るものも何もない。そういう映画になってしまう気がする。でも女の子を主人公に持ってくるとどうなるか。ぬくもりというか、人類全体を包み込むような愛というか、そういう大きな愛を感じさせる作品になる。ジブリ作品が世界中に愛されてやまないのは、そうした女性性を感じさせるからだと自分は思っている。
ファッションに関しても同じようなことを感じている。男性性の強い人は、時計とか靴とか、そういうアイテムに対してはこだわりを持っている。でも女性性の強い人は、全体のスタイリングを重視し、場所や状況も考えて、そこにふさわしい服を選ぼうとする。それぞれのアイテムが良いものであることは大切ではあるが、それ以上に、全体の印象や調和を大切にする。
組織風土についても同じようなことが言える。職場において、男性性のつよい人は、自分のスキルをもって組織に貢献しようとする。女性性の強い人は、どこか遠くから全体を見守るような視点を持っている。自ら職場の問題に気づき、それを補うような動きをする。個の集まりであるはずの組織が、まるで一つの生命体のような振る舞いをする。それを支えているのが女性性である。
このように私にとっての女性性とは、「ちょっと高いところから見守るような視点」というイメージがある。体の中から世界を見るのではなく、体を離れたちょっと高いところからの視点で世界を見ているイメージ。女性がこの視点を持つのは、人類の命をつないでいくという使命を持って生まれてきているからなのかも知れないと思ったりする。「女性は人類の発展を願っている」という表現は堅苦しいかもしれないが、自分の子であろうとなかろうと、その誕生と成長を嬉しく思い、大切にしたいという気持ちを女性は持っている気がする。私を育ててくれた母もまさにそういう人であった。
こうした「高いところから世界を見る」という女性性の視点を、かつての偉大なる経営者は持っていたように思う。「人間社会とはどうあるべきか」といった、大きな愛を感じさせる理念なり使命感を持ち、それに対する共感によって、組織に秩序が生まれていたのである。人は誰でも、より大きなものに自分の命を使いたいと願っている。構成員たちのその気持ちが理念への共感となり秩序が生まれ、一つの生命体のような組織が形成されていたのである。
それに対して「体の中から世界を見る」という視点は、人類全体の利益というよりは、個の利益が出発点になっているために、組織の秩序をつくるための原動力がカネに頼らざるを得なくなる。そうするとそれぞれの構成員たちも、当然ながら自分の利益を目的として活動することになる。そのようなカネによって作られた結束力は弱い。支配者と構成員の利益が相反するからだ。
世界では今、それと同じ状況が起きている。グローバリズムが過度に進行しており、私はこのままでは世界が破綻するのではないかと危惧している。いや、もしかしたら一旦破綻を経験するのかも知れない。この動きはもうどうにも止まらないのだろう。そしてそのあとに到来する新しい未来社会はきっと、精神文明であり、女性性の社会ではないだろうか。短期的な個人の利益を追求してしまう人間の弱さを救うのは、女性性しかない。女性性を持つ国こそが、新しい時代を切り開いていくのだろう。その国は、我が国日本であると私は感じている。