世界の見え方は二つある
私は、同じ世界に生きていても、その世界をどのように認識しているかは、人によって大きく異なると感じています。大きく分ければ、世界を理性で捉える人と、感性で捉える人の二通りがあるように思います。
理性で捉える人は、あらゆる存在や出来事を「どのように定義されているか」で理解しようとします。彼らにとって秩序とは、論理や制度の上に成り立つものであり、そこに安定や安心を見いだします。
一方、感性で捉える人は、定義よりも「自分がどう感じるか」を優先します。世界を分析するよりも、世界と共鳴しながら受け取っており、体験や直感の中に真実を感じ取ります。
この二つのタイプは、考え方の違いというよりも、世界を認識する方式そのものが異なっているため、なかなか分かり合うことが難しいように思います。
それは、観点の違いと言ってもいいし、あるいは脳のフィルターの違いと言い換えてもよいでしょう。理性と感性では、そのフィルターの構造が根本的に異なっているのです。だから、感性的な人の考え方を理性的な人に理解してもらおうとするなら、単に説明の仕方を変えるだけでは不十分で、認識の枠組みそのものを変えなければなりません。ところが、多くの人は自分がどのような認識方式を通して世界を見ているのかを自覚しておらず、その方式が存在することさえ知らないのかもしれません。
感性のタイプは、たとえば食品添加物に対して敏感です。それが危険かどうかを理屈で判断する前に、身体が「何かおかしい」と反応します。社会に対しても同じで、建前や説明よりも、空気の違和感を先に感じ取ります。そのため、陰謀論のような話にも反応しやすいのは、世界の裏にある意図や不自然さを、肌感覚として捉えてしまうからでしょう。
一方、理性のタイプは、何かが正しく定義されていることを重視します。たとえ添加物であっても、化学的に安全と証明されていれば危険ではないと考える。政治に不正があっても、それが制度の範囲内で処理されているなら「そういうものだ」と受け止めます。彼らにとって世界は、整合性のある仕組みとして理解されるものなのです。
この対比は、心理学者ダニエル・カーネマンが示したシステム1(直感的思考)とシステム2(論理的思考)の関係にも重なります。また、文化心理学者リチャード・ニスベットが指摘したように、西洋が分析的思考(要素を分けて理解する)を重んじるのに対し、東洋は全体的思考(関係性を感じ取る)を重視する傾向があります。つまり、理性と感性の対比は単なる個人差ではなく、文化や文明の基層にまで及ぶテーマなのです。
私は、これからの時代は理性から感性へと重心が移っていくと感じています。AIやデータ分析が発達し、理性的判断が自動化されるほど、人間の価値は「感じ取る力」に回帰します。理性が世界を定義する力であるなら、感性は世界を受け取る力です。そして今、人類はそのバランスを取り戻そうとしているのかもしれません。
とはいえ、それは単純に理性の時代が終わり、感性の時代が来るという話ではありません。理性と感性は、本来は対立ではなく補完の関係にあります。理性が形を与え、感性が生命を吹き込みます。この二つが調和したとき、私たちは初めて生きた知性を手にすることができるのでしょう。
ただ、その調和がどのように訪れるのか、あるいは本当に訪れるのか、私にはわかりません。けれども、もしかしたら、両者が分かり合えずとも共存できる社会なのかもしれません。理性が秩序を保ち、感性が生命を息づかせます。そのあいだを揺れながら、私たちはこれからの時代を生きていくのだと思います。
