私たちはなぜ本当にすごい人を見落とすのか


人は何を持って、誰かを尊敬するのでしょうか。尊敬という言葉は簡単に使われますが、その実態を考えてみると、意外なほど複雑です。

私たちはしばしば「理解したから尊敬する」のではなく、多くの人が「すごい」と言っているからという理由で尊敬してしまうことがあります。アインシュタインの相対性理論を本当に理解できる人は少ないと思いますし、ピカソの作品を専門的に評価できる人も多くはありません。それでも私たちは、世の中の評価に引きずられるように、彼らを偉人として扱います。坂本龍馬にしても、当時の人がその実績の具体的な価値を正確に理解していたわけではないでしょう。それでも「すごい人」という空気が尊敬を生み出してしまう。尊敬とは、理解の結果ではなく、雰囲気によって形成されることがあるのだと気づかされます。

一方で、身近にいる人を尊敬することは驚くほど難しいものです。どれだけ努力し、責任を果たし、困難に耐え続けていても、近くにいるというだけで価値を感じにくくなってしまう。ときには低く見たり、当たり前と片づけたりさえしてしまう。社会の荒波に立ち向かい、正しさのために声を上げる人でさえ、「変わった人」と扱われてしまうことがあります。

しかし、尊敬とは本来、そうした身近なところに芽生えるものなのではないでしょうか。

たとえば、街角のラーメン屋の店長。お店を続けることがどれほど大変かを知れば、その忍耐と工夫と責任感は、胸が熱くなるほど尊いものです。家族を支える人、会社を守る人、静かに信念を貫く人。彼らは派手ではありませんが、確かな重みを持っています。

私は、遠くの誰かではなく、身近な人の努力や苦労を感じ取り、尊敬できる自分でありたいと思います。理解できなくても尊敬してしまうという人間の性質を知ったうえで、なお、目の前の人の価値を感じ取れる心を持っていたいです。

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