自宅できれいなCNCフライス加工ができる「KitMill Qt100」先行販売!目標の200%を超えました! リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 7月 15, 2015 Makuakeにて出資を募集しておりますプロジェクトが目標の200%を超えました!わたくしどもとしましても、この多くのご支援に驚きを隠せません。ご支援をいただきました全てのみなさまに心より感謝申し上げます。支援枠も残りわずかではございますが、より一層のご支援を頂けますと幸いです。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
目に見えないものを大切にする生き方 9月 25, 2023 私は高校生の頃から、宇宙を理性だけで説明することは不可能だと感じてきた。138億年もの長い年月をかけて創造されたこの壮大な宇宙を、人間の浅知恵だけで説明できると考えるなんて奢りが過ぎる。そう感じてきた。 そのせいか、理性を万能とする考え方や、理性で説明のつかないものを軽視する考え方に触れると、どこか違和感を感じてしまう。たとえば今、過度なグローバリゼーションが各国の多様な伝統や文化を消し去って、画一化しようとする風潮を感じるが、理性で説明できないからといって、それを消し去ってしまってよいものだろうか。その国の人々にとっては何か大切な意味があるだろうから、これからも大切にしていくべきではないか。 流行り病に対する姿勢にも違和感がある。単に理性的な対応だけでは問題の本質に触れられないのではないか。その病気との分離を生むような考え方はやめ、人類にとって一体どのような意味があるのだろうかというような大局的な視点を持ち、共生の道を探る姿勢が必要ではないか。 私たち人間は、様々な事象に境界線を引いてそこに名前と意味・価値をつけている。それが無自覚で人間がやっている認識方式だ。元来そのように認識することは宇宙の目的であった。自分を認識するためだ。しかし理性的な考え方が行き過ぎた結果、喜びよりも苦しみのほうが遥かに大きくなってしまった。私たちは、それぞれの存在が分離独立して本当に「有る」と思い込み、そして、まるでこの3次元空間が世界の全てであるような錯覚をしてしまっている。 この世界は目に見えるものが全てではなく、目に見えないものこそ本質だ。目に見えない世界から、目に見える世界が生み出されており、分離のない世界から、分離しているように見える世界が生み出されている。そして私たちは、心を持った人間ではなく、人間の形をした心であり、この3次元空間の檻の中に閉じ込められた存在ではなく、もっと偉大で尊厳ある存在なのだ。私にはそう思えてならない。 世界は今、物質文明から精神文明へと移行している。その動きはもう何十年も前から始まっている。しかしそれが目に見えて実感できないのは、物質文明において頂点の立場にいる人たちが、精神文明に移行していくのを、もう少しだけ、もう少しだけと、延命措置を何度も繰り返しているからだ。きな臭い出来事が世界中で多発しているのは、それが理由だろう。 しかし時代は、物質文明... 続きを読む
ロゴマークの由来2 5月 30, 2016 当社のロゴマークは「ベアリングの断面を模したもの」と前回書きました。しかしそれだけではありません。この中にORIGINALMINDの頭文字「O」と「M」が入っています。つまり、真ん中の玉ころはアルファベットの「O」、それを囲む軌道面は「M」を表しています。 ロゴマークをよく見てみると、軌道面がV溝になっているのがわかると思います。でも実際のベアリングの軌道面は、VではなくてRですね。光学ステージなんかでは実際にV溝と玉ころを組み合わせて使われているときがありますが、それは稀だと思います。「O」と「M」、これを表現したくて、あえてV溝にしたというわけです。 続きを読む
意識はどこに宿るのか 11月 17, 2025 私たちはふつう、意識は自分の頭の中に閉じていると思い込んでいる。身体という境界の内部に「自分」という主体があり、そこで思考し、判断し、感情が生まれる。そんな前提から多くの議論が始まる。 しかし、その前提は本当に揺るぎないものなのだろうか。 私は長年、宇宙は多様な存在が散らばっているように見えて、実態としては「ひとつの連続体」であると考えてきた。その中に生まれる人間も動物も、決して孤立した個体ではなく、より大きな全体の中で立ち上がった「視点」に近い。この考え方を採れば、「自分の意識は自分のものだけ」と思い込む私たちの感覚そのものが、再検討を迫られる。 その手がかりとなるのが、人間が持つ「俯瞰性」である。私たちは、自分の心を自分で眺めることができる。「今、私は何を感じているのだろう」と考える瞬間、自分自身を一段上から見ている。さらには、対話をしている相手の内側を想像し、相手が何を考えているかを感じ取ることもできる。この能力は、意識が固定された一点から動かないものではなく、状況に応じて視点を切り替えたり広げたりできることを示している。 もし意識が脳という器官にのみ依存しているなら、このような「視点の移動」は説明しにくい。ところが現実には、人間の意識は明らかに境界を越えた働きを見せる。自分の体の外で起きていることに「入り込み」、さらにはそこで生じている心理的な動きを追体験することすら可能だ。これは意識が単一の器官に閉じていないという示唆に満ちている。 私は、この広がりをもつ意識の性質は、宇宙そのもののあり方と深く関係していると感じている。宇宙は、多数の個が並んでいるように見えて、実際には相互につながった大きな全体性を持つ。その全体性の中に無数の視点が立ち上がるとき、それぞれに「自分」という感覚が生じる。これが私たちが日常的に呼んでいる「自我」である。 自我は、孤立した個体意識ではない。むしろ、大きな全体の中に浮かび上がった局所的な視点であり、状況によって広がったり、相手の内側を想像したり、自分自身を俯瞰したりと、自由に形を変える。それが可能なのは、自我がもともと「閉じた箱」として成立しているのではなく、より大きな意識の流れの中に置かれているからだと考えている。 この視点に立つと、「意識は個人に完全に属している」という前提のほうが、むしろ例外的な理解に見えてくる。自我とは、大... 続きを読む
要素還元を超える科学 11月 09, 2025 これまでの科学は、現象を理解するためにそれを分解し、最小単位まで還元することで真理に近づこうとしてきました。この「要素還元的アプローチ」は、ニュートン以来の近代科学の基本姿勢であり、世界を「部分の総和」として捉える世界観に支えられてきました。 しかし、このやり方では説明できない現象があります。たとえば、意識や感情、文化のような高次の現象です。それらは、どれほど小さな単位に分解しても、その内部には存在しません。なぜなら、それらは要素の中にではなく、要素と要素の間の相互作用、すなわち関係性の中でのみ生まれるからです。 ここで重要なのは、「関係性」そのものが新しい性質を生み出すという点です。要素が結びついた瞬間、全体は単なる集まりではなく、新しいふるまいを持つ一つの系となります。 「創発」とは、まさにこの「関係の中」で起きる出来事です。一つひとつの細胞には感情はありません。しかし、多数の細胞が結合し、相互に信号をやり取りするネットワークを形成したとき、人間には感情が生まれます。一人ひとりの人間には文化はありません。しかし、多くの人々が関わり、影響を与え合う社会を形成したとき、文化が生まれます。 このように、全体の性質は要素の内部にはなく、関係の構造に宿ります。それが「全体は部分の総和ではない」と言われる理由です。要素を切り離して観察する限り、創発は決して見えてきません。 だからこそ、これからの科学には方向転換が求められています。要素を分解して理解するのではなく、構築して理解します。これが「構成論的アプローチ」です。たとえば、意識を理解するために人工神経ネットワークのモデルを構築し、どのような条件で自己認識に似たふるまいが生じるかを観察します。あるいは、人間社会をモデル化し、多数のエージェントを相互作用させることで、文化や秩序がどのように生成されるかを検証します。 たとえ全体がブラックボックスであっても、条件と結果の関係を観察すれば、創発の原理を経験的に明らかにできます。重要なのは、全体を「説明する」ことではなく、再現し、共に生成していくことです。 これまでの科学は、構成要素を取り出して理解しようとしてきました。これからの科学は、要素を結び合わせ、全体のふるまいを探る方向へ進みます。それは、観察する科学から、創ることで理解する科学への転換です。 続きを読む
存在が生まれるしくみ 11月 21, 2025 私たちはふつう、世界は初めから「そこにある」と感じている。だが、その存在感は本来、静止した「もの」ではない。世界が像として立ち上がるためには、目に見えない三つの運動が必要になる。それが「拡散」と「収束」、そして「反転」である。 まず世界には「拡散」がある。働きかけが外へ向かい、広がり、まだ形を持たないまま、多様な可能性がそのまま漂い続ける状態。ここには方向はあるが、意味がまだ定着していない。拡散は開かれた場をつくるが、存在は立ち上がらない。 次に、拡散は「収束」へ向かっていく。広がった働きかけが一点へまとまりはじめる。ばらばらの可能性が、一つの核に引き寄せられ、構造の兆しが芽生える。だが、拡散と収束がただ「行き来」しているだけでは、世界はまだ像にならない。そこにはまだ差異の発火がないからだ。 世界が像として成立するためには、この拡散と収束がひとつの地点で交差し、向きがひっくり返る運動が必要になる。これが「反転」である。 反転とは、単なる折り返しではない。拡散と収束という二つの方向性が交差し、内と外、働きかけと返り、経験とその反映が交わる瞬間だ。この一点で、拡散は収束へ、収束は拡散へと向きを変え、閉じた運動ではなく、新しい生成を引き起こす。ここで初めて、存在と認識が同時に噴き上がる。存在は認識によって成立し、認識は存在が立ち上がることで成立する。両者は双子の現象であり、反転の一点でのみ生まれる。 言葉を話すとき、その構造はさらに明確になる。私たちは言葉を発しながら、同時に自分の声を耳で聞いている。声が外へ向かって「拡散」し、耳で拾われ「収束」し、その二つの流れが交差した一点で意味が生まれる。拡散だけではただの音であり、収束だけでは黙した思考にすぎない。両者が反転することで、「言葉としての出来事」が成立する。発話と理解は、反転が起きることで一体となる。 日常の感覚もまったく同じ構造を帯びている。世界のほうへ開かれる意識の拡散、そこから返ってくる感覚の収束、そしてその二つが交差して向きを変える「点」。その瞬間に、世界は像を結び、私はその世界の中で「私」として立ち上がる。 拡散と収束の往来は、ただの運動ではなく、生成の準備段階である。反転とは、その準備が結実する瞬間であり、存在と認識が一つの出来事として起こる場所である。この瞬間に立ち上がった痕跡こそ、私たちが世界と呼んでい... 続きを読む