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神戸の矢内商店さまについて
今年の5月に、氷を販売していらっしゃる神戸市の 矢内商店さま を訪ね、取材をさせて頂きました。その時に撮らせて頂いた写真をこれから少しずつ紹介させて頂きたいと思いますが、その前に少し矢内さまについてのお話をさせて頂きたいと思います。 私は今から19年前の1997年にオリジナルマインドを創業しました。今でこそ当社は、メカトロニクス関連の組み立てキットや中古品を販売していますが、創業当初は、現在の業態とはまったく異なる「省力化機械のソフトウェア開発」の仕事をしておりました。 その仕事は、どちらかというと「生計を立てるため」の仕事でした。本当は個人のお客さまにメカトロニクス関連の組み立てキットや中古品の提供を通じて「ものづくりの楽しさと夢を届けたい」という思いを強く持っていたのですが、そのような業態はまだ日本に存在せず、しかも、自作する人がどんどん減っていった時代でしたから、商売として成立するのだろうかという強い不安を抱えていたのです。 このため私は、省力化機械のソフトウェア開発の仕事をしながら、WEBサイトの更新をするという「二足の草鞋」を履いて仕事をしていました。そんな状態でしたから、ソフトウェア開発の仕事が忙しくなると、WEBサイトの更新は何か月もストップしたままという状態が何度もあったのです。しかし矢内さまは、私が更新を滞らせても、再開すればすぐに注文をくださり、ときには、下記写真のようなプレゼントも送ってくださったり、さらには、つくった作品の写真も送ってくださいました。このことが当時の私にどれだけ励みとなり、支えとなったかしれません。私は矢内さまのおかげで、「生計のため」ではなく本来の志に専念する覚悟を得ることができたのです。 上の写真は2002年ごろ、下の写真は2010年ごろ矢内さまに頂いたプレゼントです。
人類社会の大きな潮流
いま、人類社会には、グローバル化からグローカル化へ、中央集権型から自律分散型へ、画一化からパーソナル化へという、大きな流れがあると私は思っています。 その流れは、もう既に目に見えるかたちで社会に現れてきています。 たとえば今回の緊急事態宣言がそうです。国は宣言の発令はするけれども、具体的な対策は各自治体が決定しています。私たちは同じ日本人ではありますが、各自治体によってそれぞれ産業も異なれば風土も異なります。沖縄と北海道でまったく同じ対策をするのは無理があるのです。なので、小さい単位ごとに裁量が与えられることで、より素早く的確な判断が可能になります。 もうひとつ例をあげるとすれば、Netflixがそうです。Netflixというのは、マスでなく個人に向けてコンテンツを制作しているそうです。つまり、これまではどういう作品が人気なのかを統計をとり、その結果に合わせて作品を制作してきました。でもNetflixは、個人に向けて作品を制作しています。そのことによって体験価値のクオリティを上げ、ヒット作品に繋げているのです。 そもそも私たち人間は、一人ひとりそれぞれ異なったライフスタイルや考え方を持っています。平均とまったく一致する人など誰一人としていないのです。人々はそのことに無意識ながらも気が付いてきています。だからこそ、それが社会現象となり、グローバル化からグローカル化へ、中央集権型から自律分散型へ、画一化からパーソナル化へという流れが起きているのです。 実は私たちオリジナルマインドも、これを意識した活動をしています。それは「ブランド経営」です。全ての人に好かれようとするのではなく、私たちがターゲットと決めた人たちに向けて製品とサービスを作っています。 こうした動きは、「自立した個が有機的に連携して社会全体を幸せにしていく活動」と言うことができます。それぞれの個人や企業、自治体が、自分たちのできることを通して人類社会全体に貢献していく活動であるということです。 これまでの人類社会は、多くの人たちが「この世の中をどう生き抜くか」という視点で社会を見てきました。しかし、少しずつ「自分は世の中に何ができるか」という視点に変わってきています。 「世の中をどう生きるか」という考え方は、狩猟民族の名残であり、植民地支配の名残です。「ビジネス」という...
意識はどこにあるのか ~連携としての生命~
人間が「死んだ」と判定されるとき、その基準として心臓の停止が用いられることがあります。しかし、心臓が止まったことそのものが、直接的に死を意味しているのでしょうか。むしろ重要なのは、心臓の停止によって血液の循環が失われ、身体全体を一つにまとめていた連携が維持できなくなる点にあるように思えます。心臓は生命のスイッチではなく、循環を成立させる装置であり、その循環が失われたとき、人間という全体は成立しなくなるのです。 この視点に立つと、死とは要素が壊れることではありません。心臓が止まった直後に、すべての細胞が一斉に消えてしまうわけではなく、しばらくの間は生き続けている細胞もあります。それでも私たちは、その状態を人間の死として扱います。これは、個々の要素が残っていても、それらを一つの存在として束ねていた連携や同期が失われたからだと考えられます。死とは破壊ではなく、連携がほどけていく現象だと言えるでしょう。 人間の身体は、血液だけで成り立っているわけではありません。細胞内液や細胞間液、電解質、神経、ホルモン、そして水を多く含む結合組織など、無数の流れが重なり合って存在しています。これらは命令を伝えるというよりも、状態を共有し、全体を同じ方向に揃える役割を果たしています。こうした多層的な連携によって、無数の細胞は一つの人間として振る舞うことができるのです。 意識についても、同じ構造があるのではないかと思います。意識は、肉体に魂が宿ることで突然生まれるものではなく、細胞や分子、さらに小さな要素にまで遍在しているものだと考えられます。人間の意識とは、それら無数の微小な意識が、循環と同期によって束ねられた状態にすぎません。血液や体液の流れは、意識を生み出すのではなく、意識を一つにまとめる働きをしているのです。 この構造は、会社や組織にも当てはまります。社員一人ひとりや各部門が正常に機能していても、それらを連携させる流れが失われれば、組織は成果を生み出せなくなります。情報が循環せず、判断が共有されず、意図が揃わない状態は、壊れてはいなくても、死に近い状態だと言えるでしょう。成果とは、個々の能力の総和ではなく、連携の結果として立ち上がるものだからです。 生きるとは、要素を集めることではなく、流れを保ち続けることだと思います。意識とは実体ではなく、連携と循環が生み出す状態そのものです。死とは...
ヒューマノイド時代と人間の感性
ヒューマノイドロボットに関するニュースが、ここ最近とくに増えてきました。中国やアメリカでは実用化に向けた動きが加速し、日本でもロボット開発を本格化させる企業が増えています。技術の進歩と人手不足が重なり、「人型ロボットが実際に働く」未来が現実味を帯びてきたと感じます。 ただ、この流れを単純に「機械が人間の仕事を奪う」とだけ捉えるのは、少し違うと思います。むしろ技術が進化すればするほど、人間の感性そのものが価値の中心に浮かび上がる時代がやってくると考えています。 実際、アメリカで会計士から配管工へ転職し、給与が3倍になったという記事はとても象徴的でした。配管工という仕事は単純作業ではなく、現場で判断し、調整し、最適な方法をその場で見つける力が求められます。これは単なる技術ではなく、状況全体を読み取り、微妙な違和感を察知し、手を動かしながら正解を探す「感性の仕事」です。高度なAIやヒューマノイドでも、こうした領域にはなかなか踏み込めないのだろうと感じます。 米国、会計士から配管工で給与3倍の幸福度 「AIで雇用創出は望み薄」 AIは膨大なデータを処理でき、驚くほど正確になっていますが、「感じ取る力」「場を読む力」「判断の質」は、人間がまだ大きく優位です。そして技術が進むほど、こうした感性的な力の重要性が逆に際立ってくるように思います。機械が得意なのは要素の分解と計算ですが、人間が本当に強いのは、状況を丸ごとつかみ取ることだからです。 今後、単純作業は確実にロボットに置き換わっていきます。しかし、それによって人間の役割が減るのではなく、人間が担う領域がより「人間らしい仕事」に集約されていくと考えたほうが自然です。創造、判断、調整、配慮、手ざわり、そして「違和感に気づく力」。こうした感性的な能力は、技術が進歩するほど価値を増すと思います。 私たちのものづくりの仕事も、同じ構造の中にあります。加工や組み立ての一部は自動化されるでしょうが、最適な条件を見極めること、素材のクセを感じ取ること、仕上がりの美しさを整えることには、必ず人間の感性が関与します。技術だけでは届かない領域が確かに存在しています。 ヒューマノイドの時代は、技術が人間を置き換える時代ではありません。技術が進むことで、人間の感性の価値がいっそう明確になる時代です。 これから求められるのは、技術を拒むことでも盲信する...
