KitMill MOC900 のPV撮影風景 ~その2~ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 10月 25, 2015 「KitMill MOC900」のPV撮影風景の続きです。いつもPV撮影をする時は天気が心配になります。完成すればたった2~3分間の動画でも、撮影は最低でも2日間は掛かるため、その間に天気が変わってしまうと、PVを見ている人からすれば、数秒単位で天気がコロコロと変わっているように見えてしまいますし、動画の雰囲気にまで影響してしまうからです。今回は2日間とも天気に恵まれ、狙い通りの撮影ができました。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
誹謗中傷を防ぐ仕組み 7月 30, 2020 最近、誹謗中傷に関する話題をよく目にしますね。 先日知ったのですが、ヤフーニュースでは、毎日2万件もの誹謗中傷コメントを削除しているのだそうです。 一方、同じニュースサイトでも、「NewsPicks」というサイトでは、私が知る限り、誹謗中傷コメントを見かけたことがありません。 NewsPickではどのようにして誹謗中傷を防いでいるのでしょうか。自分なりに考えてみました。 まず、NewsPicksには「プロピッカー」といって、編集部が選んだ公式コメンテーターがいます。そのプロピッカーたちは、経営戦略や法律、語学などさまざまな分野の専門家です。 プロピッカーたちは、自身の実名や所属団体、顔写真、経歴までも公表していますので、自分の名誉にかけて有益な情報を読者に提供しようという気持ちが自然に生まれます。 そして、NewsPickでは、そのプロピッカーが書き込んだコメントを優先的に上位に表示される仕組みにしています。 このため多くのユーザーは、専門家である彼らのコメントを必然的に目にするようになり、そのコメントに引っ張られて、自分も質の高いコメントを残そうという気持ちが自然に生まれます。 「割れ窓の理論」というのを知っている人は多いのではないでしょうか。「どうせまた割られるだろう」と修理せずに放置しておくと、割れ窓がどんどん増えていき、やがて犯罪まで起きるようになります。でも放置せずに徹底的に修理をしていくと、自然に割れ窓が減っていく。街もだんだんに綺麗になり、犯罪も減っていきます。 それと同じで、専門家による有益な情報が常に上位にあると、それを見たユーザーも自然に正されていき、誹謗中傷も発生しなくなるのだと思います。 もし、上位に表示されるコメントを、専門家のコメントではなく、「いいね!」が多いコメントを上位に表示させるようにしてしまっていたら、どうなっていたでしょうか。 おそらく、コメントの内容が正しい情報でなかったり、下品な内容だったとしても、刺激的であったり面白かったりすれば上位に表示されてしまいますので、誹謗中傷コメントを誘発してしまうことになるでしょう。ヤフーニュースで誹謗中傷コメントが多いのは、それが原因になっているのだと思います。 つまり、質の高いコメントが上位にあれば、そのあとに続くコメントの自然に質の良いものになっていくし、質の低いコメントが上位にあれば... 続きを読む
それって感想ですよね?と問う時代の盲点 12月 09, 2025 「それってあなたの感想ですよね?」という言葉を耳にするたび、胸の奥に小さな違和感が生まれます。なぜこの一言がここまで引っかかるのかを考えてみると、単に議論を止められたというだけではなく、自分の「世界の受け取り方」そのものが切り捨てられたように感じてしまうからです。 このフレーズは、ひろゆき(西村博之)氏がネット上の議論で使った挑発的な物言いとして広まり、「論破」文化とともに若者の間で強い人気を得ていると言われます。論理のほころびを突くには便利な言い回しですし、相手を言い負かす快感を求める人にとっては非常に使いやすい表現なのだと思います。しかし私は、この言葉の背後に、現代社会の認識の偏りが透けて見えるように感じています。 多くの人は、世界を「定義」や「事実」によって理解しようとします。そしてそこから外れたものを主観として退け、主観はあたかも「誤り」や「劣っているもの」であるかのように扱われます。しかし、いわゆる客観と呼ばれているものの多くは、実は大多数の主観が積み重なって生まれた共通認識にすぎません。本来そこに上下関係はないはずです。 私は、ものごとをまず「感じ」として受け取るタイプの人間です。世界は、感性が動くときに立ち上がると考えています。理性は秩序を記述する働きですが、感性は秩序そのものを生み出す働きです。だから主観とは、単なる私的な思い込みではなく、「世界への入口」のようなものだと感じています。 もちろん、私は理性による理解を否定したいわけではありません。理性は社会を支える大切な力です。ただ、世界を捉える方式は一つではないということを忘れたくありません。私が「それってあなたの感想ですよね?」という言葉に反応してしまうのは、主観を切り捨てる態度が、そのまま世界の豊かさを切り捨てる態度と重なって見えるからです。 私のように感性を通して世界を捉える人間にとって、感想とは単なる感情表現ではなく、関係性を感じ取り、新しい意味を発見するための大切な出発点です。それを「議論の弱点」のように扱われると、どうしても居心地の悪さを覚えます。世界は定義やデータだけで成立しているのではなく、人が感じることで立ち上がってくる側面も確かに存在するからです。 主観は弱さではありませんし、感性は曖昧さでもありません。世界を生成させる側にある力です。私はこれからも、その力を大切にしながら世界と... 続きを読む
風の谷のナウシカと社会的共通資本(その2) 7月 22, 2020 風の谷のナウシカとコロナ危機を重ねながら、これからの社会について考える中で、宇沢弘文さんという人の「社会共通資本」という思想と出会った。 この思想は、市場経済が深く浸透する社会で、「人間」や「社会」はどうあるべきかという課題意識から生まれたものだという。 古典的な経済学では、もともと自然環境はいわゆる自由財として、誰でも対価を支払わず自由に使用できるものとされた。経済活動の水準が低い頃はそれで問題がなかったのだが、各国の経済活動が活発になるにつれ、大きなほころびが出てきた。 そこで宇沢さんは、以下の3つの資本を社会的共通資本とし、それらは市場原理主義が及ぶべきではないと考えた。 1つ目は、大気、河川、海洋、森林などの「自然資本」 2つ目は、道路、公共交通機関、上下水道、電力などの「社会資本」 3つ目は、病院、学校教育、医療、金融、司法、行政などの「制度資本」 私はこの宇沢さんの思想を極めて素直に受け入れることができる。なぜかというと私は以前から西洋と東洋の違いからそれを感じていたからだ。 これはとても自覚しにくいことなのだが、西洋では「人間の周りに自然がある」という考え方が根底にあり、東洋には「自然の中に人間がある」という考え方が根底にある。 なので日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化して存在している。 しかし西洋ではそれが逆で、個は自然環境を自分の幸福のために好き勝手に使っていいという考え方がある。それどころか自然環境を征服すべき対象として見ているところがある。 実際、1980年代にアメリカのミルトン・フリードマンらが唱えた「新自由主義」は、世界に広く普及し今もなお、私たちの社会に根付いているが、この思想は、大気や海の水までも私有制が導入され、徹底した市場メカニズムにまかされている。したがって、前述の社会的共通資本は根源から否定されてしまっているのだ。 だからどうしても自然環境への感謝と配慮を怠ってしまい、結果、その維持費以上の莫大な損失を生み出してしまっているのだ。 だからこそ私は、人間の周りに自然があるのではなく、自然の中に人間があるという感覚が必要だと思う。一見なんでもないようなことだが、これは大きな違いである。 この宇宙は何もないところから作られた。何もない宇宙から銀河が生まれ、... 続きを読む
理性から感性へ ~経営の軸が変わる~ 11月 01, 2025 私はずっと前から、時代は理性から感性へと移行していくと感じてきました。その最もわかりやすい例が、「AIの進化と普及」だと思います。 AIの登場によって、経営判断の多くは合理的かつ正確に行えるようになりました。しかし、それは同時に、誰が使っても似たような答えに行き着くということでもあります。AIに頼る経営は、過去のデータと他社の傾向をなぞるような判断に収束し、結果としてどの会社も似た戦略をとるようになる。つまり、AIを使うほど個性が失われ、差別化が難しくなるのです。 そして、外側の基準に頼っている限り、競争から抜け出すことはできません。「AIがそう言っている」「データがそう示している」「みんながそうしている」。そうした外側の基準による判断には、自分の意思が存在しない。そこにあるのは正しさであって、想いではありません。 だからこそ、これからの経営者に求められるのは、自分の内側を見つめる力だと思います。自分がいま何を感じているのか、何に違和感を覚え、何に共感しているのか。その感覚を判断の基準にできなければ、外側の合理性に流されてしまいます。 経営とは、本来「こうしたい」という意思を社会に形として表す行為です。理念とは、まさにその「こうしたい」という願いを言葉にしたものだと思います。それは理性で設計するものではなく、自分の心の奥から湧き上がる感覚から生まれるものです。 AIの進化によって、理性的な判断の精度は限界まで高まりました。しかしその結果、私たちはあらためて問われるようになったのです。「自分は、どう感じているのか」「何をしたいと思っているのか」。外側の基準ではなく、自分の内側に軸を取り戻すこと。その姿勢こそが、感性の時代を生きる上で最も大切なことだと思います。 続きを読む
ホイーラーを超える認識宇宙論 11月 26, 2025 ホイーラーが晩年に語った「すべては情報である」という言葉は、単なる比喩ではなく、宇宙を理解するための鋭い視点を示していると感じています。情報を「データ」や「記号」として捉えるのではなく、宇宙の変化の痕跡として捉えることで、まったく違う景色が立ち上がってきます。 私が注目するのは、宇宙が一定の状態に留まるのではなく、常に広がりと収束の両方を抱え込んでいる点です。広がりは可能性を開き、収束は形を与える。この二つの傾向がどちらか一方ではなく、同時に働いていることで、世界には「違い」が生まれます。違いこそが、私たちが世界を認識できる根拠になります。 こうして生まれた違いは、そのまま宇宙の履歴として残ります。私はこれを痕跡と呼びますが、それは単なる物質的な跡ではなく、「どのような見方がここに生まれたのか」という記憶のようなものです。痕跡が蓄積するからこそ、宇宙は次にどのような構造をつくるかを選び取っていきます。まるで、これまでの経験の延長線上で、次の一手が決まるように感じられます。 この「痕跡の蓄積」こそが、私たちが時間と呼んでいるものの背景にあるのだと思います。外側から与えられた時間軸があるのではなく、変化の履歴が積み重なっていくことが「時間が流れる」という感覚につながる。つまり、時間とは宇宙が自分の履歴を更新していくリズムのようなものです。 私たちが世界を見る行為もまた、このリズムの中に含まれています。観測とは、宇宙とは別の立場から対象を眺める行為ではなく、むしろ宇宙の変化の中にある一つの現象にすぎません。私たちが世界を見ているようでいて、実際には宇宙が私たちという存在を通して自分を見直している。そのように捉えたほうが、世界の動きが自然に理解できます。 ここで重要なのは、「情報とは記録ではなく、見方そのものの痕跡である」という点です。痕跡は宇宙の記憶であり、見方はその都度生まれる新しい窓です。この二つが折り重なることで、世界の姿が変わっていきます。 ホイーラーが示した情報宇宙論を踏まえると、宇宙は単なる物体の集合ではなく、無数の「見方の層」でできていると考えたほうが現実に近いと感じています。そして、私たちの意識もまた、その層に重なる一つの現れです。宇宙は、私たちを通して自分の姿を確かめている。私はそのように理解しています。 この視点に立つと、世界は固定された舞台ではなく、... 続きを読む