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新製品の魅力とは

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 先日レストランで食事をしていたら、左斜め後ろの女性二人組の会話が耳に入ってきた。 「格付けチェック観た?」 「観てない。録画してあるけど」 「放送してる時に見るから面白いのに」 そういえば自分も、映画をいくつかPCに保存してあるけど、それよりも Amazon プライムとかで配信されてる映画ばかり観ている。保存してある映画の中にも良い映画はあるのに、それらは放置したままで、配信しているほうの映画ばかり観ている。それはたぶん、「ほかの誰かも観ている」ということに、何か魅力を感じているからだと思う。だから、女性が言っていた「放送してる時に見るから面白い」というのは何となく共感できる。 そのあと家に帰って、スマホを眺めていたら、偶然だがメトロノームが同期していく不思議な現象を捉えた動画を見た。バラバラのリズムを刻むいくつかのメトロノームを、振動の伝わりやすい台の上に置くと、共振現象が起き、やがて全てのメトロノームのリズムがピッタリ一致するのだ。 ほかの誰かも観ている番組とか映画を観たいという気持ちは、メトロノームを台に載せる行為と似ている気がした。それぞれがバラバラに過ごしていても、ときどき共通の台の上に乗り、社会との同期をとりたいというか、一体感を感じたいということなのかもしれない。 話しは飛ぶが、そう考えたとき、自分の中で「新製品」に対する考え方が変わってくる。多くの人は、既存製品よりも新製品に魅力を感じる。でもその理由は、新しいからというよりは、社会との一体感を感じたいからなのかもしれないと思った。古いものであったとしても、ほかの誰かも使っていると感じられれば、人は魅力を感じるのかもしれない。

突き動かされている感覚

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仕事をしているとき、「何かに突き動かされているような感覚」を味わうことがある。自分の意志で仕事をしているというよりは、何かに突き動かされているような感覚。この感覚は一体何なのか。改めて考えてみると、心の奥底に「共感」というものがあるような気がする。 会社を始めてから26年以上が経つ。その中で利益を最優先に考えていた時期があった。社員を初めて採用した頃だ。もし事業がうまくいかなくなった場合、私一人の会社なら困るのは自分だけだが、社員を雇っていると他人に迷惑をかけてしまう。そのプレッシャーが私を利益重視にしていった。 利益ばかりを追求していると、一時的にはうまくいっても長期的にはうまくいかない。利己的になってしまい、ステークホルダーを大切にしないからだ。それに、利益のためだけに仕事をするというのは、私の場合、あまりモチベーションは高まらないようだ。 そこで次に考えたことは、利他の精神を持つということ。これは無論素晴らしいことではあるのだが、私はうまくいかなかった。心のどこかで「やってあげている」というような恩着せがましい気持ちとか、「損をした」というような自己犠牲の気持ちが生まれてしまうからだと思う。 では、どうしてきたのかというと、自分の心の中に沸き起こる「ワクワク」に素直に従ってきただけだ。一見、利己的に思えるかも知れないが、それとはちょっと違う。ワクワクというのは、ふだんの生活の中で、お客さんとか社会の雰囲気を何となく感じており、それと自分の興味が一致したとき起こるものだと思う。だからワクワクに従うことは、自然と自分にとってもお客さんにとっても社会にとってもプラスになることが多いのだ。 つまり私にとってのワクワクは、お客さんや社会との共感から生まれるものであり、その気持ちに素直に従って仕事をすると「突き動かされているような感覚」になる。その感覚で仕事をしているとき、お客さんと自分との境界線や、仕事とプライベートとの境界線は消える。あらゆる境界線がないので、それは宇宙の意志そのものであり、だからこそ「突き動かされているような感覚」になるのだと思う。 宇宙の意志というと大げさな感じがしてしまうのだが、私たちは「宇宙の子」なのだ。宇宙が銀河を生み、銀河が太陽系を生み、太陽系が地球を生み、地球が私たち人類を生んだ。だから、私たち一人ひとりは宇宙の子であり、宇宙の意志が働い

女性性と日本

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「女性性」とは何か。私がすぐに思い浮かぶのが、宮崎駿監督の映画。彼の映画は、主人公に女の子をもってくることが多い。その理由を考えたときに、女性性とは何かということが私の中で明確になる。もしあの映画の主人公が男の子だったらどうなるか。たぶん、スリリングでユーモアもあって、エキサイティングな内容になるとは思う。だが、「面白かったね」で終わる。ただそれだけの映画になってしまう。感動が持続せず、心の中に残るものも何もない。そういう映画になってしまう気がする。でも女の子を主人公に持ってくるとどうなるか。ぬくもりというか、人類全体を包み込むような愛というか、そういう大きな愛を感じさせる作品になる。ジブリ作品が世界中に愛されてやまないのは、そうした女性性を感じさせるからだと自分は思っている。 ファッションに関しても同じようなことを感じている。男性性の強い人は、時計とか靴とか、そういうアイテムに対してはこだわりを持っている。でも女性性の強い人は、全体のスタイリングを重視し、場所や状況も考えて、そこにふさわしい服を選ぼうとする。それぞれのアイテムが良いものであることは大切ではあるが、それ以上に、全体の印象や調和を大切にする。 組織風土についても同じようなことが言える。職場において、男性性のつよい人は、自分のスキルをもって組織に貢献しようとする。女性性の強い人は、どこか遠くから全体を見守るような視点を持っている。自ら職場の問題に気づき、それを補うような動きをする。個の集まりであるはずの組織が、まるで一つの生命体のような振る舞いをする。それを支えているのが女性性である。 このように私にとっての女性性とは、「ちょっと高いところから見守るような視点」というイメージがある。体の中から世界を見るのではなく、体を離れたちょっと高いところからの視点で世界を見ているイメージ。女性がこの視点を持つのは、人類の命をつないでいくという使命を持って生まれてきているからなのかも知れないと思ったりする。「女性は人類の発展を願っている」という表現は堅苦しいかもしれないが、自分の子であろうとなかろうと、その誕生と成長を嬉しく思い、大切にしたいという気持ちを女性は持っている気がする。私を育ててくれた母もまさにそういう人であった。 こうした「高いところから世界を見る」という女性性の視点を、かつての偉大なる経営者は持ってい

主観的価値が高まる時代

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YouTube がなぜ成長できたのか。それは、ユーチューバーが自らの「主観」を語るからではないか。たとえばダイエットにしろ、筋トレにしろ、科学的かつ客観的に「正しい方法」があるとすれば、その解説動画は各ジャンルに一つだけあれば十分だ。でも、人々は正しさだけを求めているわけではない。「科学的にはこうしたほうがいいと言われているけど、あの人はどうやっているのだろう」というように、人それぞれのやり方や考え方が気になる。そういうニーズがあるから、一つのジャンルの中にたくさんのユーチューバーが生まれ、YouTube は成長していったのだ。 こうした、一つのジャンルにたくさんのプレイヤーが共存する現象は、他の分野でも見られる。たとえば、コンビニがそうだ。コンビニに行くと、ホッチキスやハサミは1種類しか置いてないことが多い。しかし、ワインやタバコになると、たくさんの種類の商品が置いてある。なぜか。それは、ホッチキスやハサミは機能さえ満たしていればそれでよいから、種類が少なくても誰も文句は言わない。だが、ワインやタバコは消費者の主観によって好みが分かれるから、色々な種類の商品が用意されている。 つまり、「主観」を介在させると、1つの市場やジャンル内で数多くのプレイヤーが共存できるようになる。これは、YouTube の世界においても同様だ。主観の介在が、1つのジャンルにたくさんのユーチューバーが共存できる大きな要因となっている。 私は以前から、時代が物質文明から精神文明へと移行しているということを感じており、こういったこともその現象の一つだと思う。現代は、昔のように物資が不足していた時代とは違う。だから、人々は客観的で物質的な価値だけを求めるのではなく、人の心や感情といった主観的な価値にも関心を持つようになった。この変化に気づいた企業たちは、独自の世界観やストーリーを基盤としたブランド戦略を構築している。先日、本屋に行ったときにブランディングの本がたくさんあったのは、そういう理由だと思う。 しかし、私が身を置くモノづくりの業界においては、その考え方があまり進んでいないように思う。高い品質や機能性といった客観的価値を追求することは大切ではあるのだが、そればかりでは、「日本らしさ」を失ってしまう。それらに感性や情緒性といった主観的価値を付加していくことが、メイドインジャパンのブランドを育

目に見えないものを大切にする生き方

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私は高校生の頃から、宇宙を理性だけで説明することは不可能だと感じてきた。138億年もの長い年月をかけて創造されたこの壮大な宇宙を、人間の浅知恵だけで説明できると考えるなんて奢りが過ぎる。そう感じてきた。 そのせいか、理性を万能とする考え方や、理性で説明のつかないものを軽視する考え方に触れると、どこか違和感を感じてしまう。たとえば今、過度なグローバリゼーションが各国の多様な伝統や文化を消し去って、画一化しようとする風潮を感じるが、理性で説明できないからといって、それを消し去ってしまってよいものだろうか。その国の人々にとっては何か大切な意味があるだろうから、これからも大切にしていくべきではないか。 流行り病に対する姿勢にも違和感がある。単に理性的な対応だけでは問題の本質に触れられないのではないか。その病気との分離を生むような考え方はやめ、人類にとって一体どのような意味があるのだろうかというような大局的な視点を持ち、共生の道を探る姿勢が必要ではないか。 私たち人間は、様々な事象に境界線を引いてそこに名前と意味・価値をつけている。それが無自覚で人間がやっている認識方式だ。元来そのように認識することは宇宙の目的であった。自分を認識するためだ。しかし理性的な考え方が行き過ぎた結果、喜びよりも苦しみのほうが遥かに大きくなってしまった。私たちは、それぞれの存在が分離独立して本当に「有る」と思い込み、そして、まるでこの3次元空間が世界の全てであるような錯覚をしてしまっている。 この世界は目に見えるものが全てではなく、目に見えないものこそ本質だ。目に見えない世界から、目に見える世界が生み出されており、分離のない世界から、分離しているように見える世界が生み出されている。そして私たちは、心を持った人間ではなく、人間の形をした心であり、この3次元空間の檻の中に閉じ込められた存在ではなく、もっと偉大で尊厳ある存在なのだ。私にはそう思えてならない。 世界は今、物質文明から精神文明へと移行している。その動きはもう何十年も前から始まっている。しかしそれが目に見えて実感できないのは、物質文明において頂点の立場にいる人たちが、精神文明に移行していくのを、もう少しだけ、もう少しだけと、延命措置を何度も繰り返しているからだ。きな臭い出来事が世界中で多発しているのは、それが理由だろう。 しかし時代は、物質文明

AIは人間にとって脅威か

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「モノと心は表裏一体である。」この考えが記号接地問題を解決するヒントになるのではないかと 先日書き込みました 。これはどういうことかということを自分なりに説明してみます。前回同様、専門家ではない私が考えても意味はないけれど書いてみます。 まず、大前提として私たちは仮想空間の中で生きているということです。これはコンピュータ上の仮想空間のことではなくて、いま現実と感じているこの世界が実は仮想空間だということです。私たちが見ている世界は、脳で処理した結果であって、真実そのものではありません。脳が処理する前の世界を「物理世界」とすると、脳が処理した後の世界は「意識世界」です。仮想空間は、その両方の世界が表裏の関係で成り立っており、すべての存在は物質でもあり意識でもあります。そこで「モノと心は表裏一体」という考えが出てくるわけです。 これをリンゴの赤い色を例に説明してみます。私たちはリンゴの表面に赤い色が存在していると思い込んでいますが、実際にはそこに存在していません。人間の目がリンゴからの光を受け取り、脳でデザインして赤という色を創り出しています。また、リンゴが立体的に見えるのは、私たちが過去にリンゴを色々な角度から見たり触ったりを繰り返しており、その記憶を参照して立体化させています。 私たちはこうして仮想空間を創造し、それぞれが自分だけの仮想空間の中を生きています。ですから、私の思うリンゴの赤は他の人が思う赤とは異なるし、私の思うリンゴの感触と他の人の感触は異なります。一つの宇宙の中で多くの人が生きているのと同時に、固有の仮想空間が無限に重なった並行宇宙の中を生きています。 私たちはこの仮想世界を生まれてすぐに創造し始めます。様々なものを見たり触ったりして、五感を使いながら得た情報を元に、輪郭を抽出して部分を作り立体化させ、それぞれに対応した名前(記号)を覚え、さらに意味・価値も付加していきます。これは私たち一人一人が宇宙の創造主であることを意味します。この創造のプロセスこそが、AI用語で言うところの「記号接地」であり、言葉(記号)と身体感覚や経験とを繋げる(接地させる)プロセスであると言えます。 話を戻して、なぜ「モノと心は表裏一体」ということが記号接地問題の解決のヒントになるかというと、それを解決するには、「意識」が必要になるからだと思います。センサーを配置して条件に

ソニーの井深大さんの言葉と記号接地問題

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先日、「 ChatGPTがなぜバカになるのか 」という書き込みをしたのですが、それを解決するにはどうしたらいいかを考えていたら(私が考えても意味はないけれど)、ソニーの井深さんの言葉を思い出しました。井深さんは下記のような気になる言葉を残しています。 -- 私の考えるパラダイムってのは一体何であるか。現在、モノを中心とした科学が万能になっているわけですね。これはデカルトとニュートンが築き上げた『科学的』という言葉にすべての世界の人が、それにまんまと騙されて進んできたわけなんです。 それはどういうことかと言いますと、「デカルトがモノと心というのは二元的で両方独立するんだ」という表現をしている。これを話していたら1時間くらいかかるから、このぐらいにしておきますけど、モノと心と、あるいは人間と心というのは表裏一体である、というのが自然の姿だと思うんですよね。 -- 私たちは、存在というものが人間の認識とは無関係に存在すると考えがちです。でも実際はそうではないかも知れません。私たちが見ている世界は、脳で処理した結果であって、真実の姿ではない。脳で処理する前の世界と、脳で処理した後の世界では大きく異なるはずです。なのに私たちは、脳で処理した結果が真実だと思い込んでいます。井深さんの言葉を借りれば、デカルトとニュートンにまんまと騙されているわけです。存在というのは認識が働いて初めて存在として成立します。だから存在と認識、すなわち、モノと心は表裏一体である。そういうことを井深さんは言いたかったのだと思います。 その「モノと心は表裏一体」という考え方を取り入れれば、きっと量子力学における観測問題、つまり、観測をすると実験結果が変わるという難解な問題についても理解が進むと思いますし、そうだとすれば、万物の理論(統一場理論)の完成にも一歩近づけることができる気がします。 そして、ここで私が思い浮かべたのが、人工知能の「記号接地問題」です。人工知能の最大の難問とも言われている問題です。今話題の ChatGPT もこの問題は解決されていません。記号接地とは「言葉と身体感覚や経験とを繋げること」を意味します。よく例に出されるのが「シマウマ」です。人間は「シマ模様のある馬」という説明を聞けば、初めてシマウマを見た人でも「これがシマウマだ」と理解できますが、AIにとっては、単なる言葉(記号)の羅