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10月, 2025の投稿を表示しています

理性から感性へ ~日本的空間の示す転換~

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私はずっと前から、時代は理性から感性へと移行していくと感じてきました。その理由を、チームラボ代表・猪子寿之さんがTEDで語った「日本文化と空間デザイン」の話を通して考えてみたいと思います。 日本文化と空間デザイン~超主観空間~ | 猪子 寿之 | TEDxFukuoka この講演はもう10年以上前のものですが、彼が語った内容は今なお深い示唆を与えてくれます。彼はそこで、西洋と日本では「空間の見方」が根本的に異なると述べています。 西洋では、世界をひとつの視点から捉える「パースペクティブ(遠近法)」が発達しました。画面の中には必ず「見る主体」が存在し、その視点から見た世界を描く。この構造の中では、世界はつねに「自分の外側」にあります。自分と世界、自分と他者、自分と自然。すべてが分離され、客観的に観察・制御される対象として置かれる。それは、科学や技術、そして近代的理性の発展を支えてきた大きな基盤でもありました。 一方で、昔の日本人の空間認識はまったく違いました。日本画には明確な視点がなく、画面の中に複数の時間と空間が同時に存在しています。それは「レイヤー状の世界」ともいえる構造で、そこでは「見る者」と「見られるもの」が溶け合っています。つまり、自分と世界のあいだに境界線が存在しない。人間は自然の中の一部であり、世界そのものと共に息づく存在だったのです。 この違いは、建築を見ても明らかです。西洋建築は壁によって外と内を明確に分け、強固な構造体としての「箱」を作ります。一方、日本建築では、外と内の境界はきわめて曖昧です。柱と梁で支えられた開放的な空間に、障子や縁側といった可動的な仕切りが置かれ、風や光や音が自然に通り抜けていく。建物は「閉じるもの」ではなく、「自然とつながるための場」として設計されているのです。 このような空間観の違いは、単なるデザインや技術の差ではなく、人間の世界の認識構造そのものの違いを表しています。西洋的な空間認識は、「分ける」ことを前提にしています。そこでは主体と客体が分離され、世界は「自分とは別のもの」として管理される。その意識が進むと、社会のあらゆる領域で「分断」と「支配」が強化されていきます。自然は制御すべき対象となり、経済は競争を前提に動き、人間関係も利害で切り分けられていく。こうして生まれたのが、いま私たちが生きている「理性の文明」です。 ...

理性から感性へ ~科学のまなざしから~

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私はずっと前から、理性から感性の時代に移行していくのではないかと感じてきました。その理由を、科学の側面から少し考えてみたいと思います。 スティーヴン・ホーキングはこう述べています。 宇宙のすべてを丸ごといっぺんに説明する理論を考案するのは非常に困難であることは明らかです。私たちはその代わりに、問題を細かく分割し、部分的な理論を作り出してきました。これらそれぞれの部分的な理論は、観測された事実のうちある限られた事象についてのみ説明したり予測したりすることはできますが、それ以外の要素がもたらす影響は無視するか単純な数字として表します。 おそらくこのアプローチは完全な誤りでしょう。もし宇宙に存在するすべてがお互い根本的に依存しあっているならば、他と切り離して問題の一部のみを調べることで完全な解決策に近づくことは不可能なはずだからです。それにもかかわらず、私たちはこれまでこうした方法で進歩してきました。 この言葉には深く共感します。私もまた、全体を部分に切り分けて理解しようとする近代科学の方法に、どこか根本的な限界を感じてきました。人間は、世界をより正確に理解しようとするあまり、それを構成する要素を細かく分けて分析するようになりました。この「要素還元的アプローチ」は、物理学から生物学、経済学にいたるまで、近代文明の発展を支えてきた中心的な考え方です。しかし、そうした方法で扱えるのは、あくまで「他の影響を無視したときの世界」なのかもしれません。 もし宇宙のすべてが根本的に結びつき、互いに依存し合っているのだとしたら、部分を切り離して理解することは、ほんとうの意味での理解にはならないのではないでしょうか。存在は単独では成り立たず、常に「関係」として現れ、「関係」として消えていきます。私たちが生きているこの世界も、孤立した粒の集まりではなく、ひとつの大きな流れの中で生まれ、変化し続けているのだと思います。 こうした見方は、「構成論的アプローチ」あるいは「全体的アプローチ」と呼ばれます。それは要素を分けて理解するのではなく、つながりや関係そのものに意味を見出そうとする立場です。部分の総和では説明できない全体のふるまい、それが一般に「創発」と呼ばれます。宇宙の根源的な動きも、そうした創発の連なりとして見ていけるように思います。つまり、宇宙を理解するとは、海を分解して魚を調べることでは...

宇宙のしくみ ~無と有のあいだ~ 最終章

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第3章 すべては一つの素材からできている 私たちは長い間、「世界を理解するとは細かく分けていくことだ」と信じてきました。細胞を調べ、分子へ、原子へ、素粒子へと進む。この分解の姿勢は科学を大きく前に押し出しました。しかし、どれほど分けても、最後に残る問いは必ず「それは何でできているのか」です。分けるほどに説明できない領域が立ち上がり、世界はむしろ複雑さを帯びて見えてきます。 物理学が最小構造を探る過程で明らかになってきたのは、独立した点の集合ではなく、広がりとしてふるまう世界観でした。境界という境界がにじみ、生物・物質・空間という分類そのものが揺らぎはじめると、「すべては一つのつながりの変化ではないか」という視点が自然に立ち上がってきます。これは、古くから東洋が直感してきた世界観とも深く響き合っています。存在は固定した点ではなく、一瞬ごとに姿を変える流れの表情であるという考え方です。 分けて探ろうとする営みを続けるほど、逆説的に「つながりの深さ」が浮かび上がります。自分と他者、主観と客観といった線引きも、私たちが世界を整理するために便宜的につけた境界にすぎないのではないか。実際にはすべてが一つの広がりの中で揺らぎながら現れ、また消えていく。その広がりが、ある瞬間だけ形を取り、私たちはそれを「有る」と呼んでいるだけなのかもしれません。 こうした視点に立つと、世界はホログラムのようにも見えてきます。どの一部にも全体の気配が宿り、どの存在も宇宙全体のリズムを部分的に映し出しています。私という存在もまた、偶然の産物ではなく、長い時間の積み重ねの中で繰り返し現れてきた流れの「ひとつの表現」にすぎません。私たちの創造行為もまた、個人だけの営みではなく、宇宙そのものが新しい形を求めて動いた結果として現れる出来事だと理解できます。 観察とは、単に外側を確認する行為ではありません。私たちは、自分の内側にある認識の仕組みを通して世界を見ています。つまり、世界を理解しようとする営みは、そのまま「自分という存在の深層を理解する営み」と重なっています。科学と宗教、理性と感性といった分野を隔てていた境界も、この視点に立てば自然と溶け合っていきます。 この理解に至ってから、私の世界の見え方は大きく変わりました。すべてを独立した物としてではなく、ひとつの流れの中に現れる出来事として感じるようになった...

宇宙のしくみ ~無と有のあいだ~ 第二章

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第2章 宇宙が自らを感じる構造 磁石を観察すると、内部から外部へ抜け、また戻ってくる連続した流れが存在しています。いわゆる磁束です。私たちは、この途切れない流れを直接見ることはできませんが、方向が変わる部分を通じて、その存在を「極」として感じ取っています。磁極とは、固定された実体ではなく、流れがつくる一時的な輪郭だと言えます。 この「流れと輪郭」という関係は、世界の見え方そのものを考えるうえで示唆的です。私たちが「ある」と感じているものは、静止した物体ではなく、背景に続く変化が一定の形をとった瞬間にすぎません。磁束の流れが輪郭を生み、輪郭が流れを際立たせるように、世界の多くの現象も、変化と形が互いを補い合いながら立ち上がっています。 こうした関係は、宇宙の広がりを理解するときにも役立ちます。私たちは、世界の出来事を一つひとつ切り分けて捉えがちですが、それぞれは単独で存在しているわけではありません。複数の動きが重なり合い、互いを照らすことで、はじめて意味のある姿が浮かび上がります。あるものが別のものを引き立て、その相互作用の中で新たな現れが生まれる。この重なりが、世界の多様さの源になっています。 観察という行為も、この関係と深くつながっています。私たちは対象をただ「眺めている」ように思いますが、実際には、観察することで対象の姿が変わり、自分自身の見え方もまた変化しています。見るとは、対象とのあいだに関係を結び、その関係の中で姿が定まっていく働きです。世界は、一方的に与えられる風景ではなく、関わりによって形を得る現象だと言えます。 完全な静けさだけが広がっていたと想像できる世界に、わずかな偏りや揺らぎが生まれることで、輪郭や動きが立ち上がります。その積み重ねが、のちに生命や社会や文化のような新しい現象を生み出してきました。個々の要素には存在しない性質が、全体の関わりによって突然現れることがあります。これが、これが、私たちが「創発」と呼んでいる現象の土台になっています。 宇宙はこうした創発を繰り返し、自らの姿を更新しているように見えます。新しい構造が生まれるたびに、また別の出来事が生まれ、そのたびに世界の風景が広がっていきます。私たちが創造したり、誰かと出会ったり、新たな体験に触れたりするときも、世界の中に新しい輪郭が立ち上がる瞬間です。その一つひとつが、宇宙の中に新しい...

宇宙のしくみ ~無と有のあいだ~ 第一章

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第一章 流れとしての存在 磁石には、内部から外部へ、そして再び内部へと巡る見えない流れが存在しています。これが磁束です。私たちは、その流れの向きが変わる箇所を手がかりに、S や N といった極を感じ取っています。しかし実際には、極そのものが固定された実体として存在しているわけではありません。磁石を折っても新たな S と N が現れるように、私たちが「分かれて見える」と感じているものは、連続した流れを私たちの知覚が切り取った結果にすぎません。 この事実は、世界の成り立ちを考えるうえで重要な示唆を与えます。私たちは「ある」という状態を、しばしば独立した物体として捉えがちですが、本来そこにあるのは、まだ名前を持たないまま続いている変化です。存在とは、変化の中に一瞬あらわれる節のようなものであり、永続する固まりとして固定されているわけではありません。磁束のような絶え間ない流れから、一定の輪郭が浮かび上がった瞬間、それを私たちは「有」と感じるのです。 この視点に立つと、「無から有が生まれる」という表現も神秘的なものではなくなります。有とは突然どこかから現れる塊ではなく、流れの中の一部が形を帯びて見えてくることです。仏教が「色即是空、空即是色」と語ったのは、形あるものと背後に広がる変化とが切り離せないという、非常に鋭い洞察だと思います。 物理学では、粒子は量子場のゆらぎによって生まれると説明されます。つまり粒子もまた、背景にある変化の流れから立ち上がった一時的な姿にすぎません。磁束が途切れることなく循環するように、宇宙の根底には、固定を許さない動的な広がりが続いています。 私たち人間の認識も、この構造と深く関わっています。五感は、連続する変化の流れの中から、意味を持つ断面を切り出して「ある」と感じ取ります。見る者と見られるものが完全に分かれているのではなく、同じ流れの別の局面として成立していると考えるほうが自然です。 このように捉えると、宇宙とは外側に広がる巨大な物体ではなく、私たちの認識が関与したところに立ち上がる「現れ」だと言えます。世界は静止した舞台ではなく、流れをどう受け取り、どう切り出すかによって姿を変える現象です。科学は長く「有る」を前提にして積み上げられてきましたが、実際には、その背後で絶えず動き続ける流れが全体を支えています。私たちが世界を理解しようとする営みと...

理性から感性へ ~技術と人の新しい関係~

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私はずっと前から、理性から感性の時代がくると感じてきました。どうしてそう感じるのか。いろいろ思いつくのですが、今回は、技術の世界の側面から語ってみたいと思います。 2017年のことですが、私は大阪大学の石黒浩先生の講演を聴く機会がありました。石黒先生は、人と関わるロボットや人間酷似型ロボット(アンドロイド)の研究開発で知られる方です。その講演で先生はこう語っていました。 かつての製品開発は、機能だけ、つまり人間と切り離された機能にばかり注目していた。しかし基本的な機能は概ね研究が終わり、これからは「人間とのインターフェイス」の部分が重要になってくる。 私はこの言葉を聞いて、深く共感したことを覚えています。というのも、まさにその変化を私自身、さまざまな分野で感じていたからです。 わかりやすい例として、車を挙げてみたいと思います。私が若かったころは、テレビではF1レースや耐久レースが盛んに放送されていました。しかし今は、それらは継続して開催されているものの、以前ほど注目されていません。その理由は、メーカーごとの技術的な差がごくわずかになってしまったからではないでしょうか。 レースの勝敗を決めるのは、もはや車の性能よりもドライバーの技術や戦略によるところが大きい。そして、レースで勝ったからといって、ユーザーがそのメーカーを選ぶ理由には直結しません。どのメーカーの車も、市中を走るには十分すぎるほどの性能を備えているからです。 このことからも、すでにユーザーは車の性能だけで選んでいるわけではないことがわかります。いま求められているのは、性能ではなく「感性に響く魅力」です。つまり、石黒先生の言葉を借りれば、技術が「人間と切り離された世界」から、「人とのインターフェイスを意識した世界」へと変わりつつあるということです。 では、どうすれば人の感性に響かせることができるのか。マツダは「走る喜び」というコンセプトのもと、走ることそのものが楽しくなるような車をつくっています。それは単なる移動手段ではなく、走る行為そのものが感覚的な満足をもたらす車です。こうした試みは、理性の時代に生まれた技術を、人間の感性に結び直そうとする動きのひとつだと思います。 もちろん、もっと感性に響く車がこれからも誕生していくでしょう。メーカー各社はまだ模索の途中にあります。たとえば、四人で乗ることが楽しくて仕方...

理性と感性、そのあいだに生まれる新しい統合

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アメリカで、反トランプの集会に膨大な人々が集まったそうです。暴力的なアンティファだけでなく、白人のリベラル層やエリート層までもが参加していると聞きました。私はこのできごとを、政治的な対立というよりもむしろ、人間の認識のあり方そのものが二極化している現象として見ています。 一方は、理性によって世界を整理し、秩序を築こうとする人たち。もう一方は、感性によって世界を感じ取り、つながりを大切にする人たち。これは単なる思想の違いではなく、人間が世界をどう認識しているかという深い次元の分かれ目です。 理性派の人々は、物事を対象化し、他者や自然などを、自分とは独立した客観的な「対象」として捉え、分析的に扱います。その姿勢は近代の科学や技術を生み、社会に安定と繁栄をもたらしました。私たちは間違いなく、その恩恵の中で生きています。しかし、理性が過度に強くなると、世界は「感じる対象」ではなく「操作する対象」になってしまいます。人間は自然を支配し、他者を分析し、あらゆるものを数値化して把握しようとする。その過程で、数値化できないものはノイズとみなされ、世界は少しずつ体温を失っていく。生命の息づかいも、人と人とのあいだに流れていたやわらかな気配も、理性の冷たい光の中に溶けていきます。 リベラルな社会がしばしば犠牲を生むのも、そこに「分離の構造」があるからです。理性の思考は、世界を分けて理解します。自分と他者、人間と自然、支配する側とされる側。そうやって世界を切り分けることで、管理しやすくする。その結果、誰かが常に「支配される側」に置かれる。しかもその支配は、力ではなく合理性や正しさの名のもとに行われるため、人々はそれに気づきにくい。一見、平等で公正な社会に見えても、その裏には見えない序列と依存が生まれているのです。 一方で、感性派の人々は、「すべてはひとつ」と感じることを大切にします。自然や他者を自分の延長として感じ取り、「理解する」よりも「共鳴する」ことを選びます。この世界の全てはつながっており、調和はコントロールではなく共鳴によって生まれる。感性の世界では、正しいか間違っているかではなく、「響くかどうか」が基準です。理性が縦の秩序をつくるなら、感性は横のつながりをつくる。私は、これからの時代に求められるのは、この横の秩序だと思います。 理性派と感性派の衝突は、どちらかが間違っているわけ...

宇宙自然の中の自分

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最近、文章の作成にAIを使う人が増えてきました。私も必要な場面では活用しているのですが、使いたくないときがあります。それは、降りてくるものをキャッチしたいときです。 ずいぶん昔のことですが、槇原敬之さんが何かの番組で、「詩を書いていると、その詩に教えられることがある」と話していました。彼の言っていること、わかる気がします。つまり、書いているうちに、なぜか自分が思っている以上のことが、言葉となって現れることがある。私はこの不思議な現象を「降りてきた」と呼んでいます。 「降りてきた」というと、なんとなくスピリチュアルな感じがしてしまいますが、そうしたインスピレーションを受け取る経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。ただ、それは吹けば飛んでしまうほど儚く、日頃の雑事で簡単に掻き消されてしまうもの。それでも、画面に向かってキーボードを打ち始めると、それがちゃんと文字となって現れてくれる。まるで宇宙からのメッセージを文字に変えていくような感覚です。 文章を書くということは、そうした「つながり」を確かめる行為なのだと私は思っています。たとえ上手な文章ではなくても、書くこと自体に意味がある。だから、この瞬間ではAIを使う必要はありません。 そして、降りてくるものに従って生きるとき、私は不思議な開放感と自由を感じます。ビジネス社会の中で生きているというより、宇宙自然の中を生きている感覚。仕事とかプライベートとか、そんな境界線を超えて、もっと大きな意志のもとで動かされているような気がするのです。

意識はどこから来るのか

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人間の「意識」というものは、脳が生み出していると思われがちですが、それを生み出している物理的な部分は、体のどこにも見当たらないことが知られています。ノーベル賞を受賞した物理学者ロジャー・ペンローズも、「意識は単なる情報処理では説明できない」と語っており、コンピューターでは真似できない、非アルゴリズム的な性質を持っていると主張しています。 そうした話を知ってから、私は人間という存在を「肉体に魂が宿ったもの」と感じるようになりました。だから、「頭の回転がわるいな」と思う日は、「魂にとって、今日のこの肉体は居心地がよくないのだろうな」と思ったりします。つまり、肉体のコンディションが悪いと、魂が思うようにコントロールできないから、シンクロ度が下がってしまう。すると、頭も筋肉も思うように動かなくなるのではないかと。 そして、完全に肉体がまったく機能しなくなったとき、つまり、死んでしまったとき、魂はもうその肉体を離れ、やがては、別の肉体に宿って生まれ変わる。いわゆる「輪廻転生」を繰り返していくのではないか。私はそんなイメージを持っています。 もし本当に、輪廻転生があるのだとしたら、次にどこの国、どんな環境に生まれても、誰もが幸せに生きられる社会であってほしいと願います。それは、他ならぬ自分たちのためでもあるからです。今の私たちがこうして不自由なく生きていられるのは、ただの偶然ではなく、たくさんの先人やご先祖様たちの努力の積み重ねがあったからです。その恩恵を受け取るだけで終わらせず、次の世代のために、少しでもこの世(あの世に対するこの世)を、自分が生まれた時よりも、良い場所にしていかないといけないと思います。 そうやって、何度も何度も繰り返しながら、この世を少しずつ良くしていくこと。それがきっと、今よりも何十倍、何百倍も幸せで豊かな場所につながっていくのだと思います。だからこそ、今を生きる私たちには、その歩みをつなげていく責任があるのではないでしょうか。

分離の時代を超えて、「ひとつ」を取り戻す

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  私は、この世(あの世に対するこの世)というのは、一人ひとりが本気で向き合えば、きっと今よりも何倍、何十倍も豊かで幸せな場所にできるのだと思っています。でも、どこかでそれを諦めているというか、もはや、そういう社会をつくろうという概念さえ持たない人も増えているように思います。 私が社会人になったころは(もう何十年も前のことですが)、少なくとも自分の周りの人たちは、今より生き生きとしていたし、何より未来に対する希望があった。でも今は、何か重たい閉塞感が広がってしまっているように感じます。 その背景には、近代以降の社会の基盤をつくってきた「合理主義」や「物質主義的な価値観」があるように感じます。この考え方は、あらゆる物事を分けて分類し、「これはこれ」「それはそれ」というように分離して理解しようとするものです。 それは分析や研究には有用ですが、人にまでそれを当て嵌めると、「個」の意識ばかりが強くなってしまいます。そうなると、周りはすべて他者であり、敵に見えてしまう。だから、自分を守るために相手を攻撃したり、支配したりしようとする。そういう考え方を持つ人たちが増えてくると、社会は殺伐とし、やがては自分を守るための行動だったはずのものが、社会全体、さらには自分自身をも破滅に追い込むという結果になってしまいます。 本来、私たちは「ひとつ」なのだと思います。だから、日本人が古くから大切にしてきた、「個」よりも「場」を大切にする考え方のほうが、まわりまわって個の幸せにつがなるのではないかと感じています。

ネパールの政変とカーク銃撃に見る、物質主義の限界

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先日、ネパールで、政権に対する大規模な反政府デモが起きました。アメリカでは、チャーリー・カークが講演のさなかに銃撃され、命を落としたといいます。どちらも日本ではあまり報道されていないようですが、歴史の大きな転換点を感じさせる重大な出来事のように感じます。そして、この二つの出来事は、一見無関係のように見えますが、私には共通の流れがある気がします。 この世界を長く支えてきたのは、理性主義や物質主義の世界観です。人と人、国家と個人、支配者と被支配者というように、あらゆるものの境界を明瞭に切り分け、その上に法律や組織、経済の仕組みを作り、効率と利益の論理で世界を動かそうとしてきました。宇宙や自然、生命という奇跡としか言いようのない神秘神聖なるものをも物質と同列に扱い、世界を管理対象かのように見る態度です。ちょっと乱暴な見方をしてしまっているかもしれませんが、そう感じるのです。 ネパールの動きには、外部の資金や情報が関わっているという話もあります。でも私には、それ以上に、支配の仕組みが寿命を迎えつつあるのではないかと思うのです。乾いた計算から生まれる理性だけでは、人の心はもう動きません。その奥にある「共感」や「つながり」への渇望が、世界を少しずつ動かしているのかもしれません。 カークは、聖書や歴史を手がかりに、学生たちと真正面から向き合ってきたそうです。誰かを打ち負かすためではなく、人が誠実に生きるとは何かを探りながらです。その声は、物質主義の世界が理解できない領域「人は一つの大きなものと繋がっている」という感覚を呼び起こしていたように思います。彼が銃撃されたという事実は、支配する側が「正しく見えてしまう理性のからくり」からの目覚めを恐れている証なのかもしれません。 理性は社会を支えるためには欠かせない道具です。しかし、それだけを絶対視した世界は、いつか必ず、人の奥深い部分と衝突します。その衝突が、いま世界のあちこちで起きているのではないでしょうか。 支配する側は焦りを感じているのでしょう。だからこうした事件が起きるのだと思うのですが、皮肉なことにそれらが繰り返されることで、このシステムは、自ら崩壊するスピードを加速していくように見えます。夜明けは、もうすぐそこまで近づいているのではないでしょうか。