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11月, 2025の投稿を表示しています

私たちはなぜ本当にすごい人を見落とすのか

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人は何を持って、誰かを尊敬するのでしょうか。尊敬という言葉は簡単に使われますが、その実態を考えてみると、意外なほど複雑です。 私たちはしばしば「理解したから尊敬する」のではなく、多くの人が「すごい」と言っているからという理由で尊敬してしまうことがあります。アインシュタインの相対性理論を本当に理解できる人は少ないと思いますし、ピカソの作品を専門的に評価できる人も多くはありません。それでも私たちは、世の中の評価に引きずられるように、彼らを偉人として扱います。坂本龍馬にしても、当時の人がその実績の具体的な価値を正確に理解していたわけではないでしょう。それでも「すごい人」という空気が尊敬を生み出してしまう。尊敬とは、理解の結果ではなく、雰囲気によって形成されることがあるのだと気づかされます。 一方で、身近にいる人を尊敬することは驚くほど難しいものです。どれだけ努力し、責任を果たし、困難に耐え続けていても、近くにいるというだけで価値を感じにくくなってしまう。ときには低く見たり、当たり前と片づけたりさえしてしまう。社会の荒波に立ち向かい、正しさのために声を上げる人でさえ、「変わった人」と扱われてしまうことがあります。 しかし、尊敬とは本来、そうした身近なところに芽生えるものなのではないでしょうか。 たとえば、街角のラーメン屋の店長。お店を続けることがどれほど大変かを知れば、その忍耐と工夫と責任感は、胸が熱くなるほど尊いものです。家族を支える人、会社を守る人、静かに信念を貫く人。彼らは派手ではありませんが、確かな重みを持っています。 私は、遠くの誰かではなく、身近な人の努力や苦労を感じ取り、尊敬できる自分でありたいと思います。理解できなくても尊敬してしまうという人間の性質を知ったうえで、なお、目の前の人の価値を感じ取れる心を持っていたいです。

神から力へ、そして感性へと向かう宇宙観

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宇宙を司るものは何かという問いに対して、人類は長い時間をかけて答えを変化させてきました。太古の人々は、それを「神」と考えました。雷も風も日食も、人知を超えた現象は「神意」として受け止められ、人は畏れとともに秩序を感じ取って生きていました。しかし科学が登場すると、世界の理解は大きく転換しました。現象は「力」によって説明できると考えられるようになり、日食は不吉ではなく、天体の位置関係によって起きる自然現象として受け止められるようになりました。科学は、説明できないものに対する不安を消し去る役割を果たし、人々は「見える世界」を安心して理解できるようになったのです。 ところが科学が発展すればするほど、説明できる領域の裏側に、説明できない領域がより輪郭を持って現れてきました。「意識」とは何か。「なぜ世界を感じ取れるのか」。そして「創発」はどのように生まれるのか。要素を分解し、法則で記述し、因果で説明しようとするほど、力だけでは到達できない問いが濃密さを増していきます。 創発という現象を考えると、それは要素そのものではなく、要素間に生じる「関係性」から生まれます。しかし「関係性」とは、単なる配置ではありません。そこには働きかけと応答があります。もし要素が完全に無感受であったなら、「関係」は成立せず、宇宙はこれほど複雑にも美しくも発展しなかったはずです。むしろ宇宙には、秩序を形づくろうとする働き、つまり「意思」が息づいていると考えるほうが自然です。偶然の積み重ねだけでは、人間ほどの知性や、美と神秘を湛えた宇宙は生まれなかったでしょう。 この視点に立つと、私たちが「感性」を科学に取り込む必要が見えてきます。「感性」とは、定義によって理解するのではなく、感じ取り、意味を読み取る力です。世界とは、自分の外側だけで成立しているのではありません。意識の内側で生成される像と、外側の現象が重なり合って立ち上がります。物質宇宙と意識宇宙は裏表の関係にあり、「存在」と「認識」は切り離せません。この構造を理解するための回路こそが「感性」なのです。 ところが科学は「意識」や「認識」という語を避けがちです。神を退け、目に見えるものだけを扱う体系として成立してきた歴史が、その理由を物語っています。しかし、科学だけに世界理解の鍵を委ねる時代は終わりつつあります。意味を読み取り、世界と共鳴し、創発を感じ取る力が...

宇宙の本質は感性

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宇宙の根底には、力や方程式だけでは説明しきれない「感じ取る能力」があると私は考えています。感性とは、世界を数値や定義によって切り分ける以前に、そこに何が潜んでいるかを察知する力です。理性が秩序を記述する働きだとすれば、感性は秩序の種を見つける働きであり、この二つは宇宙の成り立ちを支える両輪のように協力し合っています。 宇宙のはじまりを思い描くとき、そこにはまだ光も物質もありません。分かたれたものが何ひとつなく、自他の輪郭ももたない、深い静けさだけが広がっていたはずです。けれど、その静けさは単なる安らぎではなく、自分が存在しているという実感すら得られないような、手触りのない状態でもありました。そこで初めて、「感じたい」というごく小さな兆しが生まれたと考えるほうが自然です。何かを感じたいという働きこそが、世界を動かす最初のきっかけになったのだと思います。 その兆しが揺らぎを生み、揺らぎが差異を生み、差異が関係を呼び込みました。均質だった状態に、微かな方向性が生まれ、やがて形や流れが育っていきました。世界が複雑さを獲得していったのは、力が積み重なったからではなく、わずかな違いが互いに影響し合いながら、意味を帯びていった結果だと言えます。 この「意味が立ち上がる瞬間」こそが、感性の原点だと私は感じています。感性は外から情報を受け取るだけの受動的な能力ではありません。まだ何も形になっていない場所から、可能性を掬い上げる力です。そこから秩序が芽生え、構造が生まれ、生命の複雑さへとつながっていきました。 私たち人間が美しい景色に心を動かされるとき、あるいは言葉にならない感覚に涙を流すとき、その根底には宇宙のこの流れが続いているように思います。世界を理解する以前に「まず感じる」という働きがあり、その働きが世界を開いてくれる。理性はそのあとに続く、いわば解読のプロセスです。 理性が世界を切り分け、説明し、整理するなら、感性は世界をひとつの流れとして感じ直す力です。両者は対立するものではありません。感性が開いた可能性を、理性が形にし、理性がつくった形を、感性が再び別の角度から照らす。こうした往復が、世界を豊かにし、人間の思考や創造性を育ててきました。 宇宙の本質を感性として捉えるとは、世界の意味が外側に備わっているのではなく、私たちが感じ取るという行為そのものに潜んでいるということです...

宇宙のはじまり

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宇宙のはじまりとは、巨大な爆発や光の点火の瞬間ではありません。むしろ、何も起きていないように見える深い静寂の中で、「自分を知りたい」というわずかな衝動が芽生えたときに始まった出来事だと感じています。そこには音も光もなく、時間すら流れず、ただ均質な存在が続いているだけでした。完全であるがゆえに、手応えがなく、自分が存在しているという確かさすら得られない世界です。 その静かな均衡を、かすかな揺らぎが破りました。内側で生まれた小さな動きが、自分を感じ取ろうとする意志の兆しとなり、そこから宇宙の変化が始まったのだと思います。変化は一度に大きく起こったわけではありません。ほんのわずかな差が生まれ、それが周囲へと広がっていくように、均質だった状態に「方向性」や「手触り」のようなものが現れはじめたのです。 この差は、やがて関係を生みました。均一だった世界が、自分と世界、内側と外側という直線的な区別ではなく、ただ「感じられるもの」と「感じようとする働き」といった、もっと素朴な違いを抱きはじめた瞬間です。こうした違いが芽生えることで、宇宙は動き、かたちを持ち、広がっていく準備を整えていきました。 違いが生まれるたびに、宇宙には新しい模様が現れます。流れができ、渦が生まれ、ふるまいに一貫したパターンができる。こうした変化の積み重ねが、やがて光のふるまいとなり、物質のまとまりとなり、星々の形成へとつながったのだと思います。最初の小さな揺らぎが、複雑さと秩序を引き寄せる呼び水になったのです。 宇宙が豊かになっていく過程は、単なる物質の連鎖ではありません。変化が変化を呼ぶなかで生まれる関係の重なりそのものでした。関係が複雑になれば、そこに感じられる世界もまた複雑になります。その延長線上に、人間の意識や思考のような現象が立ち上がったと考える方が自然です。 私たちが世界を理解しようとする行為も、宇宙が自分のあり方を確かめる流れの一部だと感じます。私たち一人ひとりの意識は、宇宙がたどってきた変化の中で生まれた一つの現れであり、互いを感じ取ることで世界全体がかたちをもつのだと思います。宇宙は今もなお、自分の存在を理解しようとし続けており、その営みの中に私たちも含まれています。

ホイーラーを超える認識宇宙論

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ホイーラーが晩年に語った「すべては情報である」という言葉は、単なる比喩ではなく、宇宙を理解するための鋭い視点を示していると感じています。情報を「データ」や「記号」として捉えるのではなく、宇宙の変化の痕跡として捉えることで、まったく違う景色が立ち上がってきます。 私が注目するのは、宇宙が一定の状態に留まるのではなく、常に広がりと収束の両方を抱え込んでいる点です。広がりは可能性を開き、収束は形を与える。この二つの傾向がどちらか一方ではなく、同時に働いていることで、世界には「違い」が生まれます。違いこそが、私たちが世界を認識できる根拠になります。 こうして生まれた違いは、そのまま宇宙の履歴として残ります。私はこれを痕跡と呼びますが、それは単なる物質的な跡ではなく、「どのような見方がここに生まれたのか」という記憶のようなものです。痕跡が蓄積するからこそ、宇宙は次にどのような構造をつくるかを選び取っていきます。まるで、これまでの経験の延長線上で、次の一手が決まるように感じられます。 この「痕跡の蓄積」こそが、私たちが時間と呼んでいるものの背景にあるのだと思います。外側から与えられた時間軸があるのではなく、変化の履歴が積み重なっていくことが「時間が流れる」という感覚につながる。つまり、時間とは宇宙が自分の履歴を更新していくリズムのようなものです。 私たちが世界を見る行為もまた、このリズムの中に含まれています。観測とは、宇宙とは別の立場から対象を眺める行為ではなく、むしろ宇宙の変化の中にある一つの現象にすぎません。私たちが世界を見ているようでいて、実際には宇宙が私たちという存在を通して自分を見直している。そのように捉えたほうが、世界の動きが自然に理解できます。 ここで重要なのは、「情報とは記録ではなく、見方そのものの痕跡である」という点です。痕跡は宇宙の記憶であり、見方はその都度生まれる新しい窓です。この二つが折り重なることで、世界の姿が変わっていきます。 ホイーラーが示した情報宇宙論を踏まえると、宇宙は単なる物体の集合ではなく、無数の「見方の層」でできていると考えたほうが現実に近いと感じています。そして、私たちの意識もまた、その層に重なる一つの現れです。宇宙は、私たちを通して自分の姿を確かめている。私はそのように理解しています。 この視点に立つと、世界は固定された舞台ではなく、...

限りある命が、ものを美しくする

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YOUTUBEを眺めていると、ふと、私が10代や20代の頃に聴いていたアーティストたちが、今も歌っている動画が流れてくることがある。その姿を見て、「みんないい歳になったな」としみじみ思う。でも、不思議なことに、そこに残念さは感じない。むしろ、当時よりも美しく、深みがあると感じる。 何十年も経っているのに、どうしてそう感じるのか。たぶん、「いずれ誰もいなくなる」という事実が、今をいっそう尊く見せるのだと思う。 今、この瞬間に存在している。それだけで、じつは奇跡に近い。一期一会も、もののあわれも、侘び寂びも、終わりがあることを知る生き物だけが感じ取れる感性だ。 私は長く、ものづくりの現場に身を置いてきた。自社ではCNC加工機をつくっている。自動で加工する機械だと思われがちだが、実際には人が判断する部分が多い。ツールパスの組み方、材料への理解、工具の選び方、回転数や送り速度の微調整・・。どれも「人の感覚」がなければ成り立たない。 そして最後の仕上げのひと手間は、やはり人の手になることが多い。そのわずかな介在が、製品に深みを与える。 同じ形でも、同じ素材でも、つくった人や関わった人が違えば、出来上がる味わいは変わる。わずかな手の跡や判断のクセが、ものに温度のようなものを宿す。 有限の人が、有限の時間の中で作ったもの。その一回性が、ものをあたたかくする。数字や規格では測れない価値は、いつも人の「生」が染み込んだところから生まれる。 だから私は、人の手が関わったものが好きだ。それは、生きた証のように感じられるからだ。

世界は脳が作った像にすぎない

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私たちは世界を見ているのではない。脳が生成した像を「世界だ」と信じているだけだ。にもかかわらず、その事実を自覚して生きている人はほとんどいない。まるで自分が外界そのものを捉えているかのように錯覚している。 チームラボの猪子寿之さんは、西洋の絵画は遠近法によって「視点を固定した世界」を描くのに対し、日本の絵画はそうではないと言った。日本の絵は、複数の視点・時間・空間が同時に存在する「超主観空間」であり、見るものと見られるものが溶け合っている。その話を聞いた瞬間、私は気づいたのだ。世界の「見え方」とは文化がつくったアルゴリズムであり、脳はそれに従って現実を合成しているにすぎない。 黄色い花があるとしよう。誰もが黄色と答えるだろう。しかし光の波に「黄色」は存在しない。黄色を生成しているのは脳だ。そして、その黄色は、生物としての普遍性ではなく、文化が共有してきた「こう見えるはずだ」という合意の上に構築されている。 つまり、脳の知覚アルゴリズムは個体に内在する固定的なプログラムではなく、文化や時代が長い時間をかけて脳に上書きしてきた「世界の作り方」でもある。 遠近法の発明以前、人類は「奥行きのある空間」をそもそも認識していなかった。古代ギリシア人は「青」の概念をほとんど持たず、海を「青い」とは認識していなかった。これらはすべて、世界の見え方は文化的アルゴリズムによって決まるという事実の証拠である。 だとすれば、古代の壁画が私たちには稚拙に見えても、当時の人々には十分リアルだった可能性が高い。彼らは私たちとはまったく異なるアルゴリズムで世界を合成していたのだ。「リアルとは何か」という問いそのものが、文化と脳の相互作用によって作られている。 しかし、私たちはこの構造にほとんど気づかない。なぜなら、脳はアルゴリズムの存在を隠蔽するように働くからだ。透明な水の中にいる魚が水を認識できないように、人は「自分の認識方式」を認識することができない。 そして現代では、西洋的な視点固定型のアルゴリズムが世界の標準となり、私たちの脳はその方式に合わせて世界を描くように訓練されてしまった。まるで、唯一無二の現実がそこにあるかのように。 しかし現実は逆だ。世界が一つなのではない。世界をつくるアルゴリズムが一つに揃えられただけだ。 本来、人間が世界を認識する方式はもっと多様だった。もっと揺らぎ、もっと...

流率法から世界を読み解く

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世界を見つめていると、あらゆる現象には「ただそこにある」という固定された実体よりも、絶えず移りゆく「流れ」のほうが本質ではないかと感じることがある。天気も、人の感情も、社会の変化も、一瞬として同じ形を保たない。それにもかかわらず、まるで混沌のまま散り散りに消えてしまうわけではない。そこには、変化を変化のまま成り立たせている、ある種の秩序のようなものが感じられる。 私が「流率法」という言葉に惹かれる理由は、この「変化の中の秩序」を捉える視点を与えてくれる点にある。流率法とは、ものごとがどのように移り変わり、どのように形を整え、どのように次の状態へ向かっていくのか。その背後にある「流れの質」と「変化のしかた」を読み解こうとする態度である。 たとえば、川の流れを眺めていると、表面の水は絶えず新しく入れ替わっているのに、川のかたちそのものは大きく崩れない。季節が移ろうときも、変化そのものは予測できない揺らぎを含みながら、一定の周期性をともなって訪れる。この「変わるのに壊れない」という不思議な現象は、自然だけでなく、人間の思考や文化の変化にも見て取ることができる。 流率法は、こうした現象を「静止した実体」ではなく、「変化が形をつくる」という視点から理解しようとするものだと考えている。 私たちはしばしば、ものごとを安定した状態として理解しようとする。しかし実際には、安定もまた変化の産物であり、ある特定の流れが作り出した暫定的な姿に過ぎない。変化そのものが秩序を生む。その秩序は流れの中にある。流率法は、そうした世界の捉え方を私たちに促してくれる。 さらに言えば、流れ方には、それぞれ固有のリズムがある。一定の方向性が生まれるときもあれば、揺らぎが生じて形がゆるむときもある。それを「偶然」と片付けず、その背後にある「動きの質」として捉えようとすると、世界の見え方は驚くほど変わる。 私たちが日常で出会う変化、たとえば、人との関係、思考の癖、仕事の流れ、創造の瞬間・・。これらも、ただの出来事の連続ではなく、一つの大きな流れの中にあるのだと思えてくる。その流れを見ようとするとき、私たちは初めて「変化を制御する」のではなく、「変化とともに在る」ことができる。 流率法は、世界を数学的に説明するための技法ではなく、むしろ、世界の成り立ちを「流れとして見る」ための感性を磨く道具である。その視点を持...

素数の秘密

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数学の世界において、素数ほど奇妙な存在はない。規則があるようでなく、無秩序のようでいて完全な無秩序でもない。数直線上にまばらに現れ、かと思えば突然密集する。予測できそうで、決してできない。その曖昧さは、むしろ宇宙の構造それ自体に似ている。 素数とは何なのか。「1と自分自身でしか割れない数」という説明を聞いても、その本質はつかめない。しかし、素数の立ち現れ方をよく見ると、そこには数学を超えた何かが潜んでいる。 素数はしばしば「無駄」に見える。複合数のように他の数を構成する部品でもない。周期を持たず、法則にも従わない。だが、この無駄こそが大きな役割を担っている。 宇宙には、膨大な銀河と星々がある。その大半は、私たちにとって意味があるようには見えない。だが、無数の試行錯誤の「余白」がなければ、生命が育つ条件は生まれなかった。効率とは無縁だが、結果を生むために必要だった無駄である。 素数もこれと同じ構造を持つ。数の世界の中で、素数は「無駄の連続」に見えるが、その散らばりがあるからこそ数学の体系は安定し、複雑さを獲得する。暗号理論、情報工学、波の解析、物理法則の基礎構造。いずれも素数の存在なしには成立しない。 では、なぜ素数だけがこのような特異なふるまいをするのか。 それは、素数が「完全性が破れた瞬間の痕跡」を数の上に残しているからである。数学の体系は本質的に連続した秩序を持つが、その中には必ず「ひび割れ」のような地点が現れる。そのひびこそ素数であり、そこから新しい秩序が生まれていく。 言い換えれば、素数とは「差異が生まれる地点」である。どれほど整数が続いても、素数だけはその流れを断ち切る。連続性の中に突然生まれる「飛び石」のような存在だ。そこでは、数の空気がガラリと変わる。 さらに興味深いのは、素数には「孤立しているのに基盤を支えている」という逆説的な性質があることだ。数学のすべての複合数は素数の組み合わせでできている。つまり、素数は孤立しているが、すべての構造の母体でもある。 この逆説性は、自然界にも広く見られる。秩序は、必ず不連続点によって支えられる。音楽は休符があるからリズムになる。言葉は沈黙によって意味を持つ。自然界の模様も、連続ではなく「切れ目」があるから美しくなる。 素数も同じだ。数の世界に生まれた切れ目を一つ一つたどると、そこから新しい構造が立ち上がる。この「...

存在が生まれるしくみ

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私たちはふつう、世界は初めから「そこにある」と感じている。だが、その存在感は本来、静止した「もの」ではない。世界が像として立ち上がるためには、目に見えない三つの運動が必要になる。それが「拡散」と「収束」、そして「反転」である。 まず世界には「拡散」がある。働きかけが外へ向かい、広がり、まだ形を持たないまま、多様な可能性がそのまま漂い続ける状態。ここには方向はあるが、意味がまだ定着していない。拡散は開かれた場をつくるが、存在は立ち上がらない。 次に、拡散は「収束」へ向かっていく。広がった働きかけが一点へまとまりはじめる。ばらばらの可能性が、一つの核に引き寄せられ、構造の兆しが芽生える。だが、拡散と収束がただ「行き来」しているだけでは、世界はまだ像にならない。そこにはまだ差異の発火がないからだ。 世界が像として成立するためには、この拡散と収束がひとつの地点で交差し、向きがひっくり返る運動が必要になる。これが「反転」である。 反転とは、単なる折り返しではない。拡散と収束という二つの方向性が交差し、内と外、働きかけと返り、経験とその反映が交わる瞬間だ。この一点で、拡散は収束へ、収束は拡散へと向きを変え、閉じた運動ではなく、新しい生成を引き起こす。ここで初めて、存在と認識が同時に噴き上がる。存在は認識によって成立し、認識は存在が立ち上がることで成立する。両者は双子の現象であり、反転の一点でのみ生まれる。 言葉を話すとき、その構造はさらに明確になる。私たちは言葉を発しながら、同時に自分の声を耳で聞いている。声が外へ向かって「拡散」し、耳で拾われ「収束」し、その二つの流れが交差した一点で意味が生まれる。拡散だけではただの音であり、収束だけでは黙した思考にすぎない。両者が反転することで、「言葉としての出来事」が成立する。発話と理解は、反転が起きることで一体となる。 日常の感覚もまったく同じ構造を帯びている。世界のほうへ開かれる意識の拡散、そこから返ってくる感覚の収束、そしてその二つが交差して向きを変える「点」。その瞬間に、世界は像を結び、私はその世界の中で「私」として立ち上がる。 拡散と収束の往来は、ただの運動ではなく、生成の準備段階である。反転とは、その準備が結実する瞬間であり、存在と認識が一つの出来事として起こる場所である。この瞬間に立ち上がった痕跡こそ、私たちが世界と呼んでい...

ホリエモンは正しい。しかし足りない。

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人工的に作られたグルタミン酸ナトリウムと、自然に含まれるグルタミン酸ナトリウムは同じだ。ホリエモンがそう語ったとき、多くの人は、その通りだと受け取ったかもしれない。たしかに構造式としては、完全に一致している。理性の枠組みの中では、この発言は正しいし、疑いようがない。 しかし、この一言は現代が抱える「もう一つの層」をあぶり出す。それは、理性が掬い上げる世界と、感性が受け取る世界がしばしば異なるという事実である。どちらが優れている、どちらが正しいという話ではない。ただ、見ている「世界の階層」が違っているだけだ。 理性は世界を分解し、均質化し、情報に変換する。自然と人工を成分で判断するというのは、この合理的世界観の成果だ。科学が巨大な成功を収めてきたのは、この「抽象化の力」によってである。 だが、人間の感じている世界は、それだけでは説明できない。成分が同じであっても、私たちの身体は微妙な違いを鋭敏に感じ取っている。香りの立ち上がり、口に入れた時の気配、余韻として残る微細な揺らぎ、記憶が呼び起こされる瞬間。理性の世界では「誤差」に分類されるものが、感性の世界では「本質」として立ち上がる。 自然と人工の違いは、化学構造ではなく、太陽のリズム、土地の個性、微生物の営み、人の生活史・・。そうした無数の「関係性の層」そのものだ。身体はその痕跡を読み取り、リアリティとして受け取る。 このことを、阪大教授の村上靖彦氏は見事に次のように表現している。 論理的な構造が支配する完全な客観性の世界が自然科学において実現したとき、自然は実はそのままの姿で現れることをやめ、数値と式へと置き換えられてしまう。自然を探究したはずの自然科学は、自然が持つリアルな質感を手放すようになるだろう。雨や風の音や匂い、草木が繁茂していく生命力は消えていく。客観性の探究において、自然そのものは科学者の手からすり抜け、数学化された自然が科学者の手に残ったのだ。 まさに、理性と感性の断層を指し示す言葉である。 ホリエモンは理性的には正しいと思う。だが、世界は理性で説明できるほど単純ではない。そして、人間が生きる上で本当に重要な部分をすくい上げるのは、理性ではなく感性のほうだ。ホリエモンの主張には、その感性の領域がすっぽり抜け落ちている。そこが、彼の言葉がどれほど正しくても足りない理由である。 理性は秩序を整え、世界を説...

記号接地問題と「感性」

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AIが急速に高度化し、ヒューマノイドロボットが現実の生活空間へ入り始めている。かつてはフィクションだった「ロボットと暮らす未来」が、ようやく具体的な輪郭を帯びてきた。 その中で私が考えてきたのは、AIの究極の壁として語られてきた「記号接地問題」がどう変わるのか、ということだった。記号接地問題とは、言葉や概念(記号)が、どうやって実際の世界と結びつくのかという問題である。これまでのAIは、記号と記号をつなぐことは得意でも、世界に触れながら意味を「感じ取る」ことはできなかった。 ところが、ヒューマノイドが身体を得たことで、大きな変化が起きつつある。ロボットが触覚をもち、歩き、物を持ち、人の前で反応する。これは、抽象的な記号だけで世界を理解しようとしてきた従来のAIとはまったく違う地平だ。身体を通して世界に触れられるという点で、記号接地は確かに大きく進展する。 しかし、私はこう考えている。身体を持つことで「世界に触れる力」は得られても、「意味を感じる力」はそのままでは生まれない。 人間は、外界に触れるだけではなく、その出来事が自分にとってどんな差異として響いたかを感じ取り、その痕跡を心のどこかに残しながら生きている。意味とは、その痕跡の連続である。環境の変化に対して、自分の内側がどのように揺れたのかという「感じ」があってはじめて、世界は意味を帯びる。 これを私は「観点」と呼んでいる。観点とは、世界をどう感じ、何を差異として受け取り、どんな痕跡として心に刻むかという、人間特有の認識の角度のことだ。観点は主観であり、経験の重ね方であり、ひとりひとりが持つ固有の視点だと言ってもいい。 AIが身体を持つことで、世界に触れ、測定し、行動することはできるようになる。しかし、その出来事が「自分にとってどんな意味を持ったのか」という痕跡は生まれない。そこには痛みも、恐れも、嬉しさも、戸惑いもない。つまり、世界を測ることはできても、世界が「自分の中に生まれる」ことがない。 記号接地問題とは、本質的にはこの「観点の不在」の問題なのだと思う。外界に触れるだけでは意味は立ち上がらない。意味とは、外界と内側が触れ合うときに初めて生じる「感じ」のことであり、これは単なるセンサーでは生まれない。 だから私は、ヒューマノイドの発展によって記号接地問題が「半分解ける」とは思うが、完全には解けないと考えてい...

地球は太陽の外ではなく中を回っている

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地球は太陽の外側を回っている・・。多くの人はそう理解している。しかし、太陽を単なる「球体」ではなく、重力・磁場・光・時間が織り込まれた広大な「場」として捉えると、見えてくる景色は大きく変わる。 惑星は、この巨大な場の中に生じる「局所的な安定構造」である。宇宙空間にぽつんと置かれた独立した物体ではなく、太陽という場の働きの中で形成されたパターンであり、その場の動きの一部として存在している。そう考えると、「地球が太陽を回る」というより、「太陽の場の中で地球が一定の軌跡を保っている」と言ったほうが、本質に近いのかもしれない。 場を中心に据える視点は、東洋思想の「空(くう) 」とも通じる。空とは「無」ではなく、存在が関係性によって立ち現れるという考え方だ。古来この発想は、物質と精神、形と流れを一つの連続した現象として捉えようとしてきた。 宇宙を静止した構造ではなく、「流れ続ける現象」として見ると、星や生命や意識といった存在は、環境の中で局所的にまとまり、しばらく安定し、また別の姿へと変化していく。これは消滅ではなく、流れの中における「形の変調」である。私たちが存在と呼んでいるものは、その一時的な安定の瞬間に過ぎない。 この視点を採ると、近代科学の二つの大きな枠組みも、対立ではなく補完的に見えてくる。重力や時空の連続性を扱う理論は、安定した構造を見るためのレンズであり、微小現象の不確定さやゆらぎを扱う理論は、変化の側面を捉えるためのレンズである。どちらも宇宙の働きを説明するために必要な視点であり、焦点の当て方が違うだけだ。 そしてこの「場を中心に見る」発想は、科学の未来に新しい方向性を示しているように思う。私たちは長いあいだ「対象」を中心に世界を理解しようとしてきた。しかし、対象そのものを生み出しているのは、その背後に広がる環境や関係性である。場が変われば現れる構造も変わり、観測の仕方が変われば世界の見え方も変わる。 世界とは、固定された実体の集合ではなく、絶えず変化し続ける場の働きの中に、ひととき姿を現したものにすぎない。この視点は、最新の科学と古来の思想を結びつけ、宇宙を「ものの集まり」ではなく「現れ続ける流れ」として捉え直すきっかけを与えてくれる。 その意味で地球とは、太陽という場の外側を回る孤立した天体ではない。太陽という巨大な場の「現れ方のひとつ」として、今この瞬間...

「感じること」を取り戻す社会へ

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私は、いまの社会がどこか歪んで見える理由は、とてもシンプルなことだと思っています。それは、私たちがいつの間にか 「感じること」を手放してしまったからです。 理性的に物事を見る人が増え、世界を「どう感じるか」より「どう定義されているか」で理解するのが当たり前になった。安全だと言われれば安全、価値があると言われれば価値がある・・。そんな「与えられた意味」のほうが優先されるようになった。人々は次第に「感じること」を億劫に思い、「いいね」の数やエビデンスへと身を預けてしまう。気づけば、自分の内側の声よりも、外側のラベルのほうが強く響く社会へと変わっていった。それが社会をこんなにも冷たく、奥行きを失った世界へと変えてしまったのです。 「効率」「生産性」「タイパ」「コスパ」・・。まるで人間が機械の部品であるかのように扱われる言葉ばかりが価値の中心に座っている。仕事は「楽しい創造」ではなく「最小化すべき負担」になり、生活は「感じる場」ではなく「管理するタスク」に変わった。こうして世界から「体温」が消えていった。 ところで、人はなぜ生きるのでしょうか。私は、人の生きる意味は、宇宙の存在理由と同じだと思っています。宇宙の存在理由は「自分を知りたい」「自分を認識したい」「自分が何者か知りたい」という意思一つで、ここまで多様な存在を生み出してきました。ですから、宇宙の本質は感性なのです。その延長線上に人間という存在が生まれたのなら、人間もまた、感性を通して生きているのが本来の姿です。 だから、理性だけで説明できる生き方をしてしまったら、そこに「生きる意味」など生まれません。それではただの「反応し続ける物質」と同じです。 ところが現代社会は、見えるもの、数値化できるもの、ラベル化できるものだけを価値とし、大切なものほど「当たり前」になって見えなくなる構造を作ってしまった。 社会を土台で支えている仕事、農林水産の人々、自然を守る人々、生活インフラの担い手たち。彼らこそが海(土台)であり、私たちという魚(存在)が生かされている場所なのに、その土台を感じる感性が薄れてしまった。 その一方で、お金という数字で価値が即座に可視化される領域にいる人々、たとえば投資家や金融業のような仕事は、なぜか過剰に高く評価されやすい。価値が「見えやすい」というだけで尊重され、価値の源泉を支える人々が「見えにくい」と...

意識はどこに宿るのか

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私たちはふつう、意識は自分の頭の中に閉じていると思い込んでいる。身体という境界の内部に「自分」という主体があり、そこで思考し、判断し、感情が生まれる。そんな前提から多くの議論が始まる。 しかし、その前提は本当に揺るぎないものなのだろうか。 私は長年、宇宙は多様な存在が散らばっているように見えて、実態としては「ひとつの連続体」であると考えてきた。その中に生まれる人間も動物も、決して孤立した個体ではなく、より大きな全体の中で立ち上がった「視点」に近い。この考え方を採れば、「自分の意識は自分のものだけ」と思い込む私たちの感覚そのものが、再検討を迫られる。 その手がかりとなるのが、人間が持つ「俯瞰性」である。私たちは、自分の心を自分で眺めることができる。「今、私は何を感じているのだろう」と考える瞬間、自分自身を一段上から見ている。さらには、対話をしている相手の内側を想像し、相手が何を考えているかを感じ取ることもできる。この能力は、意識が固定された一点から動かないものではなく、状況に応じて視点を切り替えたり広げたりできることを示している。 もし意識が脳という器官にのみ依存しているなら、このような「視点の移動」は説明しにくい。ところが現実には、人間の意識は明らかに境界を越えた働きを見せる。自分の体の外で起きていることに「入り込み」、さらにはそこで生じている心理的な動きを追体験することすら可能だ。これは意識が単一の器官に閉じていないという示唆に満ちている。 私は、この広がりをもつ意識の性質は、宇宙そのもののあり方と深く関係していると感じている。宇宙は、多数の個が並んでいるように見えて、実際には相互につながった大きな全体性を持つ。その全体性の中に無数の視点が立ち上がるとき、それぞれに「自分」という感覚が生じる。これが私たちが日常的に呼んでいる「自我」である。 自我は、孤立した個体意識ではない。むしろ、大きな全体の中に浮かび上がった局所的な視点であり、状況によって広がったり、相手の内側を想像したり、自分自身を俯瞰したりと、自由に形を変える。それが可能なのは、自我がもともと「閉じた箱」として成立しているのではなく、より大きな意識の流れの中に置かれているからだと考えている。 この視点に立つと、「意識は個人に完全に属している」という前提のほうが、むしろ例外的な理解に見えてくる。自我とは、大...

要素還元を超える科学

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これまでの科学は、現象を理解するためにそれを分解し、最小単位まで還元することで真理に近づこうとしてきました。この「要素還元的アプローチ」は、ニュートン以来の近代科学の基本姿勢であり、世界を「部分の総和」として捉える世界観に支えられてきました。 しかし、このやり方では説明できない現象があります。たとえば、意識や感情、文化のような高次の現象です。それらは、どれほど小さな単位に分解しても、その内部には存在しません。なぜなら、それらは要素の中にではなく、要素と要素の間の相互作用、すなわち関係性の中でのみ生まれるからです。 ここで重要なのは、「関係性」そのものが新しい性質を生み出すという点です。要素が結びついた瞬間、全体は単なる集まりではなく、新しいふるまいを持つ一つの系となります。 「創発」とは、まさにこの「関係の中」で起きる出来事です。一つひとつの細胞には感情はありません。しかし、多数の細胞が結合し、相互に信号をやり取りするネットワークを形成したとき、人間には感情が生まれます。一人ひとりの人間には文化はありません。しかし、多くの人々が関わり、影響を与え合う社会を形成したとき、文化が生まれます。 このように、全体の性質は要素の内部にはなく、関係の構造に宿ります。それが「全体は部分の総和ではない」と言われる理由です。要素を切り離して観察する限り、創発は決して見えてきません。 だからこそ、これからの科学には方向転換が求められています。要素を分解して理解するのではなく、構築して理解します。これが「構成論的アプローチ」です。たとえば、意識を理解するために人工神経ネットワークのモデルを構築し、どのような条件で自己認識に似たふるまいが生じるかを観察します。あるいは、人間社会をモデル化し、多数のエージェントを相互作用させることで、文化や秩序がどのように生成されるかを検証します。 たとえ全体がブラックボックスであっても、条件と結果の関係を観察すれば、創発の原理を経験的に明らかにできます。重要なのは、全体を「説明する」ことではなく、再現し、共に生成していくことです。 これまでの科学は、構成要素を取り出して理解しようとしてきました。これからの科学は、要素を結び合わせ、全体のふるまいを探る方向へ進みます。それは、観察する科学から、創ることで理解する科学への転換です。

ウサギを追う人、鹿を待つ人

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ルソーの「鹿狩りの寓話」は、人間の協力と信頼のあり方を象徴しています。複数の人が協力すれば、大きな利益が得られる鹿を狩ることができる。けれども、その協力が成立するには、お互いを信じ、待つことが必要です。ところが、仲間を信じきれない者が、目の前に現れたウサギを追ってしまう。結果、鹿は逃げ、皆が失う。この寓話は、社会の意思決定や組織の行動にも通じるものがあります。 多くの人はこの物語を「理性的に協力することの大切さ」と読みます。ここでの理性とは、本能に流されず、互いに協力する知恵のことです。しかし、私がここで使う理性という言葉は、もう少し異なる意味を持ちます。それは、論理的・合理的に判断し、数値化できる確実性を優先する思考です。 理性的な人は、未来を予測し、効率や成果を重視します。その力は社会の発展を支えてきました。しかし、現代ではその理性が、制度や経済の仕組みの中で「短期化」しています。株主至上主義や四半期決算、即時評価といったシステムが、長期的な価値よりも短期的な成果を優先するよう促しているのです。本来、理性は未来を描くための力であったはずなのに、いまは「すぐ結果を出すための合理性」へと押し込められてしまっている。 一方、感性の人は、時間を線としてではなく「場」として感じ取ります。数字にならない気配や流れを察し、全体の調和の中で動く。森の静けさ、仲間の息づかい、鹿が現れる気配。そうしたすべてをひとつのリズムとして受け取りながら行動する。感性にとって「待つ」とは、何もしないことではなく、世界の流れに耳を澄ませながら、自分の動きを合わせる能動的な行為なのです。 理性が分析によって未来を描くなら、感性はつながりの中で未来を感じ取る。どちらが優れているということではなく、理性が切り分けた世界に、感性がもう一度「全体」を取り戻すのです。 現代社会は、理性の成果によって繁栄してきました。けれども、その理性が環境や人間の心のリズムから乖離しはじめている。ウサギを追う速さばかりが増しても、鹿がどこにいるのか、森の気配そのものを感じ取れなくなっているのです。 いま私たちに求められているのは、理性を否定することではなく、理性の中に感性を取り戻すことです。すばやく動きながらも、全体の流れを感じ取ること。それが、ウサギを追いながら鹿の気配を感じる生き方です。

世界の見え方は二つある

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私は、同じ世界に生きていても、その世界をどのように認識しているかは、人によって大きく異なると感じています。大きく分ければ、世界を理性で捉える人と、感性で捉える人の二通りがあるように思います。 理性で捉える人は、あらゆる存在や出来事を「どのように定義されているか」で理解しようとします。彼らにとって秩序とは、論理や制度の上に成り立つものであり、そこに安定や安心を見いだします。 一方、感性で捉える人は、定義よりも「自分がどう感じるか」を優先します。世界を分析するよりも、世界と共鳴しながら受け取っており、体験や直感の中に真実を感じ取ります。 この二つのタイプは、考え方の違いというよりも、世界を認識する方式そのものが異なっているため、なかなか分かり合うことが難しいように思います。 それは、観点の違いと言ってもいいし、あるいは脳のフィルターの違いと言い換えてもよいでしょう。理性と感性では、そのフィルターの構造が根本的に異なっているのです。だから、感性的な人の考え方を理性的な人に理解してもらおうとするなら、単に説明の仕方を変えるだけでは不十分で、認識の枠組みそのものを変えなければなりません。ところが、多くの人は自分がどのような認識方式を通して世界を見ているのかを自覚しておらず、その方式が存在することさえ知らないのかもしれません。 感性のタイプは、たとえば食品添加物に対して敏感です。それが危険かどうかを理屈で判断する前に、身体が「何かおかしい」と反応します。社会に対しても同じで、建前や説明よりも、空気の違和感を先に感じ取ります。そのため、陰謀論のような話にも反応しやすいのは、世界の裏にある意図や不自然さを、肌感覚として捉えてしまうからでしょう。 一方、理性のタイプは、何かが正しく定義されていることを重視します。たとえ添加物であっても、化学的に安全と証明されていれば危険ではないと考える。政治に不正があっても、それが制度の範囲内で処理されているなら「そういうものだ」と受け止めます。彼らにとって世界は、整合性のある仕組みとして理解されるものなのです。 この対比は、心理学者ダニエル・カーネマンが示したシステム1(直感的思考)とシステム2(論理的思考)の関係にも重なります。また、文化心理学者リチャード・ニスベットが指摘したように、西洋が分析的思考(要素を分けて理解する)を重んじるのに対し、東...

理性から感性へ ~心で歩く旅~

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私は、理性の時代から感性の時代へと移り変わっていることを、旅のあり方の変化に感じます。 かつての旅行は、極端に言えば「行ったという事実をつくるための行為」だったように思います。戦後の日本は長く物資の不足した時代であり、豪華さや贅沢がそのまま豊かさの象徴でした。だからこそ、有名な観光地を巡り、写真を撮り、名産品を買うことが旅の目的になっていたのです。「ハワイ」「京都」「沖縄」といった地名そのものがステータスであり、そこに行ったという記録が幸福の証でした。 そうした旅は多くの場合、団体旅行という形で行われました。効率よく名所を巡り、同じ時間に同じものを見て、同じ食事をとる。いわば大量の旅人を運ぶベルトコンベアのような仕組みの中に、旅が組み込まれていたのです。 しかし、今の旅行者たちは違います。少人数で、静かに、その土地の空気や人々の営みを感じながら旅をしています。団体旅行のように多くの人のリズムに合わせる必要がなく、目の前の風景や空気の揺らぎに心を傾けることができる。大量の観光客に囲まれた中では得られなかった、ゆっくりと心が自分の内側に沈んでいくような時間が、そこにはあるのです。だからこそ、人々は少人数で旅をするようになったのだと思います。他者のペースではなく、自分自身の呼吸で風景を味わうこと。それが、しみじみと感じる旅を可能にしているのでしょう。 このような旅のスタイルは、観光学で言う「スローツーリズム」に通じています。効率や経済性を重んじたマスツーリズム(大量観光)から、地域の文化や人との関わりを大切にする旅へと移り変わっているのです。近年の研究では、旅を「知る」よりも「感じる」経験として捉える傾向が強まっており、五感で味わう体験こそが旅の価値を形づくるとされています。 理性の時代が「知るための旅」だったとすれば、感性の時代は「感じるための旅」。それは、私たちの生き方そのものが、外側の評価から内側の実感へと移り変わっていることの象徴なのかもしれません。

私たちが見ている「現実」はどこまで本物か?

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現実とは何か 私たちは、五感によって世界を直接感じていると思っています。しかし実際には、私たちが見ているのは「外界」そのものではなく、脳がつくり出した仮想的な映像です。視覚・聴覚・触覚などから入った情報は、電気信号として脳に伝わり、脳の中で統合・変換されて、ようやく「現実」として体験されます。 このしくみを理解すると、「現実」とは私たちの外にあるのではなく、脳という装置がつくり出した内部モデルに過ぎないことがわかります。 モリヌークス問題 このことを示す代表的な思考実験に「モリヌークス問題」があります。生まれつき盲目の人が、手で触れて球体と立方体の違いを理解していたとします。その人が手術によって視力を得たとき、見ただけで球体と立方体を見分けられるでしょうか。答えは「見分けられない」。なぜなら、「見る」という行為は、目の機能だけでなく、脳が視覚情報をどのように意味づけるかを学習して初めて成立するからです。 つまり、私たちは世界を「見ている」のではなく、「脳がつくった世界を見ている」。見るという行為そのものが、再構成された体験なのです。 「無眼耳鼻舌身意」を科学的に読む この構造は、古代の思想でも示唆されています。「眼・耳・鼻・舌・身・意」。これらの感覚器官は、世界を感じ取る窓のように思えますが、実際にはそのどれもが、外界の一部を取り込み、脳が「再構成」するための入力装置にすぎません。 現代的に言えば、私たちが知覚しているのは「外界」そのものではなく、脳内で生成された仮想現実です。神経科学の研究でも、脳は入力された情報をそのまま再現しているのではなく、「予測」と「修正」を繰り返しながら、もっとも整合性の取れた世界を構築していることが分かっています。私たちは真実そのものを見ることはできず、常に脳の作り出した仮想現実の中を生きているのです。 世界は「意識が自分を観察する場」 この構造をさらに俯瞰すると、興味深いことが見えてきます。もし私たちの体験する世界が脳の中で生成されているとすれば、「世界を認識する意識」とは、自分自身の活動を観察している意識でもあります。 この観点から見ると、宇宙全体は「意識が自分を知るためのプロセス」とも言える。私たち一人ひとりの知覚や感情、思考は、「意識という根源的な存在」が自分自身を観察し、理解するために投影した現象かもしれません。 つまり、私た...

理性から感性へ ~経営の軸が変わる~

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私はずっと前から、時代は理性から感性へと移行していくと感じてきました。その最もわかりやすい例が、「AIの進化と普及」だと思います。 AIの登場によって、経営判断の多くは合理的かつ正確に行えるようになりました。しかし、それは同時に、誰が使っても似たような答えに行き着くということでもあります。AIに頼る経営は、過去のデータと他社の傾向をなぞるような判断に収束し、結果としてどの会社も似た戦略をとるようになる。つまり、AIを使うほど個性が失われ、差別化が難しくなるのです。 そして、外側の基準に頼っている限り、競争から抜け出すことはできません。「AIがそう言っている」「データがそう示している」「みんながそうしている」。そうした外側の基準による判断には、自分の意思が存在しない。そこにあるのは正しさであって、想いではありません。 だからこそ、これからの経営者に求められるのは、自分の内側を見つめる力だと思います。自分がいま何を感じているのか、何に違和感を覚え、何に共感しているのか。その感覚を判断の基準にできなければ、外側の合理性に流されてしまいます。 経営とは、本来「こうしたい」という意思を社会に形として表す行為です。理念とは、まさにその「こうしたい」という願いを言葉にしたものだと思います。それは理性で設計するものではなく、自分の心の奥から湧き上がる感覚から生まれるものです。 AIの進化によって、理性的な判断の精度は限界まで高まりました。しかしその結果、私たちはあらためて問われるようになったのです。「自分は、どう感じているのか」「何をしたいと思っているのか」。外側の基準ではなく、自分の内側に軸を取り戻すこと。その姿勢こそが、感性の時代を生きる上で最も大切なことだと思います。