熱間鍛造でクルマのパーツをつくっているところの動画 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 05, 2017 熱間鍛造でクルマのパーツをつくっているところの動画。これほどの製造技術が確立されるまでには、気が遠くなるほどの試行錯誤の繰り返しがあったことでしょう。偉大なる先輩技術者に対して尊敬の気持ちが湧いてきます。 ソース元:環境ビデオのような、美しい熱間鍛造の動画です リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
日本人と感性 12月 04, 2025 日本人ほど「感性」を軸に世界を読み取る民族は珍しいと思います。それは単なる情緒文化ではなく、世界をどう捉え、どう創造するかという「認識方式」そのものです。 ピーター・ドラッカーは「すでに起こった未来」第11章で、日本の画家について興味深い指摘をしています。「日本の画家は空間をまず見て、線を見るのはその後である。線から描きはじめることはない」。これは対象を「パーツ」へ分解して理解する西洋とは対照的です。日本人は、まず全体の雰囲気や気配を受け取り、その中から線が自然に立ち上がってくる。つまり部分ではなく、全体のふるまいを先に感じ取ってしまう民族なのです。 私は、この特徴こそが日本人の本質的な強みだと考えています。 近代の科学は、世界を要素へ分解することで発展してきました。しかし21世紀は、個々の「要素」よりも、要素間の「関係」が世界を動かしています。創発、複雑系、ネットワーク、文脈。どれも「全体のふるまい」を見なければ本質に触れられません。 これは、複雑系科学が示すように、要素そのものではなく、要素が結びついたときに生まれる「全体のふるまい」こそが本質である、という現代の理解とも共鳴します。 そして、日本人は歴史的にその認知能力を使い続けてきました。日本庭園の余白の扱い、茶道の「間」、工芸に宿る素材との対話。美は物の形にあるのではなく、物と物の「あいだ」に宿る。そこに立ち上がる全体の調和を感じ取ることが、日本人の感性の核です。 今、世界はこの「日本的感性」を必要としはじめています。AI、ロボティクス、分散システム、創発的デザイン。どれも要素分解の論理だけでは届かず、全体の振る舞いを「感じる力」が求められています。 理性は秩序を記述しますが、感性は秩序を生み出します。二つが共鳴したとき、新しい科学も、新しい創造も立ち上がる。日本人はその両方を同時に扱える素地を文化的に持っています。 私は、日本人の感性こそが、これからの時代に必要とされる「未来の知性」の原型になると感じています。そして、その視点を言語化し、現代に接続していくことが、いまの私たちの役割なのだと思います。 続きを読む
世界は脳が作った像にすぎない 11月 24, 2025 私たちは世界を見ているのではない。脳が生成した像を「世界だ」と信じているだけだ。にもかかわらず、その事実を自覚して生きている人はほとんどいない。まるで自分が外界そのものを捉えているかのように錯覚している。 チームラボの猪子寿之さんは、西洋の絵画は遠近法によって「視点を固定した世界」を描くのに対し、日本の絵画はそうではないと言った。日本の絵は、複数の視点・時間・空間が同時に存在する「超主観空間」であり、見るものと見られるものが溶け合っている。その話を聞いた瞬間、私は気づいたのだ。世界の「見え方」とは文化がつくったアルゴリズムであり、脳はそれに従って現実を合成しているにすぎない。 黄色い花があるとしよう。誰もが黄色と答えるだろう。しかし光の波に「黄色」は存在しない。黄色を生成しているのは脳だ。そして、その黄色は、生物としての普遍性ではなく、文化が共有してきた「こう見えるはずだ」という合意の上に構築されている。 つまり、脳の知覚アルゴリズムは個体に内在する固定的なプログラムではなく、文化や時代が長い時間をかけて脳に上書きしてきた「世界の作り方」でもある。 遠近法の発明以前、人類は「奥行きのある空間」をそもそも認識していなかった。古代ギリシア人は「青」の概念をほとんど持たず、海を「青い」とは認識していなかった。これらはすべて、世界の見え方は文化的アルゴリズムによって決まるという事実の証拠である。 だとすれば、古代の壁画が私たちには稚拙に見えても、当時の人々には十分リアルだった可能性が高い。彼らは私たちとはまったく異なるアルゴリズムで世界を合成していたのだ。「リアルとは何か」という問いそのものが、文化と脳の相互作用によって作られている。 しかし、私たちはこの構造にほとんど気づかない。なぜなら、脳はアルゴリズムの存在を隠蔽するように働くからだ。透明な水の中にいる魚が水を認識できないように、人は「自分の認識方式」を認識することができない。 そして現代では、西洋的な視点固定型のアルゴリズムが世界の標準となり、私たちの脳はその方式に合わせて世界を描くように訓練されてしまった。まるで、唯一無二の現実がそこにあるかのように。 しかし現実は逆だ。世界が一つなのではない。世界をつくるアルゴリズムが一つに揃えられただけだ。 本来、人間が世界を認識する方式はもっと多様だった。もっと揺らぎ、もっと... 続きを読む
私たちはなぜ本当にすごい人を見落とすのか 11月 30, 2025 人は何を持って、誰かを尊敬するのでしょうか。尊敬という言葉は簡単に使われますが、その実態を考えてみると、意外なほど複雑です。 私たちはしばしば「理解したから尊敬する」のではなく、多くの人が「すごい」と言っているからという理由で尊敬してしまうことがあります。アインシュタインの相対性理論を本当に理解できる人は少ないと思いますし、ピカソの作品を専門的に評価できる人も多くはありません。それでも私たちは、世の中の評価に引きずられるように、彼らを偉人として扱います。坂本龍馬にしても、当時の人がその実績の具体的な価値を正確に理解していたわけではないでしょう。それでも「すごい人」という空気が尊敬を生み出してしまう。尊敬とは、理解の結果ではなく、雰囲気によって形成されることがあるのだと気づかされます。 一方で、身近にいる人を尊敬することは驚くほど難しいものです。どれだけ努力し、責任を果たし、困難に耐え続けていても、近くにいるというだけで価値を感じにくくなってしまう。ときには低く見たり、当たり前と片づけたりさえしてしまう。社会の荒波に立ち向かい、正しさのために声を上げる人でさえ、「変わった人」と扱われてしまうことがあります。 しかし、尊敬とは本来、そうした身近なところに芽生えるものなのではないでしょうか。 たとえば、街角のラーメン屋の店長。お店を続けることがどれほど大変かを知れば、その忍耐と工夫と責任感は、胸が熱くなるほど尊いものです。家族を支える人、会社を守る人、静かに信念を貫く人。彼らは派手ではありませんが、確かな重みを持っています。 私は、遠くの誰かではなく、身近な人の努力や苦労を感じ取り、尊敬できる自分でありたいと思います。理解できなくても尊敬してしまうという人間の性質を知ったうえで、なお、目の前の人の価値を感じ取れる心を持っていたいです。 続きを読む
日本の強さはこれから輝きを増す 12月 07, 2025 日本はこの30年間、停滞の象徴のように語られてきました。しかし私は、それは日本に力がなかったからではなく、国際政治の力学の中で「力を発揮することが許されなかった」からだと捉えています。アメリカが主導する国際秩序の下で、日本は大きく表舞台に立とうとすると叩かれた。TRONの排除、プラザ合意、バブル崩壊。そのいずれも、日本が世界の中心に近づきすぎたときに起こっています。 つまり日本は、本来「新しいものを生み出す力」を持っていたにも関わらず、それを前面に出せなかった。そこで日本が選んだのは、表の競争ではなく、目立たない領域で世界を支えるという道でした。素材、部品、精密加工、計測機器、医療機器、工作機械。どれも表からは見えないけれど、これがなければ世界の産業は一歩も進めない。日本は縁の下で世界を支え続けてきたのです。 では、なぜこれからはその静かな力が表に現れてくるのか。理由は大きく4つあります。 第一に、世界が「情報の時代」から「実体の時代」へ回帰しはじめていることです。ITや金融は華やかですが、AIによって大量の仕事が代替され、儲かる企業は増えても雇用は増えません。観光は国際情勢で一瞬にして止まる。しかし、エネルギー、食料、インフラ、製造、物流といった「リアル」を支える仕事は、AI時代ほど価値が増す。人が生きる以上、物は必要であり、機械は動き続けなければならない。日本はまさにその「リアル」の技術を積み重ねてきた国です。 第二に、地政学的な分断が「信頼できる国」を求めるようになったことです。中国一極依存の時代は終わり、企業はサプライチェーンを分散せざるを得ません。そのとき必要とされるのは、品質、安定供給、誠実さ、透明性、契約遵守。これらをすべて満たす国は、実は日本しかありません。日本の素材・部品が止まれば世界が止まる。その事実がこれからより鮮明になるでしょう。 第三に、AI時代は「数値化できない価値」が問われる時代になることです。AIは合理性の領域をすべて奪うでしょう。しかし、音、手触り、揺れ、質感、違和感のなさ、美しさ。こうした「見えない品質」は、日本人の感性に深く根ざした領域です。世界が合理だけで進めなくなるほど、「感じの良さ」をつくれる国が強くなる。これは日本の土壌そのものです。 第四に、世界が派手な覇権より「目立たない安定」を求め始めているからです。政治的にも経済... 続きを読む
地図なき学びが生む断片性 12月 01, 2025 最近、YouTubeで大学の講義動画をいくつか視聴しました。先生たちの知識量は膨大で、その専門性に感服しました。ただ、見ているうちに、どうしても小さな違和感が残りました。それは、細かい知識はよくわかるのに、その知識が「世界のどこに置かれているのか」という地図が示されないまま話が進む点です。木は見えるのに、森のかたちが分からない。そんな感じでした。 現代の学問は長い時間をかけて細分化され、部分へ部分へと掘り下げて発展してきました。そのおかげで高度な研究が可能になったのは確かですし、先生たちが日々努力されていることもよく伝わります。ただ、その構造ゆえに、どうしても「全体像を先に示す」という時間が後ろに押し出されてしまうことがあるのだと思います。これは先生個人の問題ではなく、教育の仕組みとして自然に生じる傾きです。 しかし、この傾きが続くと心配になることがあります。それは、学ぶ側が「断片的な知識」ばかりを集めてしまうということです。ある場面では詳しいのに、少し状況が変わると急に難しくなる。「この部分ならできるけれど、他の場面では力が出ない」という人が増えてしまう。これは本人の能力不足ではなく、地図を持たずに学んでしまうために起きる、ごく自然な結果だと思います。 一方で、最近の学問の動きを見ていると、少しずつ空気が変わってきているようにも感じます。個別の知識だけを見るのではなく、「それらがどうつながっているのか」「どんな関係で支え合っているのか」を重視する方向へ、静かに向かい始めているのです。バラバラに扱われていた知識を、もう一度ひとつの世界として見直すような流れです。 だからこそ、学びの最初に「地図」が必要だと感じます。地図があれば、細かい知識がどの枝に属し、どの幹につながっているかがひと目でわかります。逆に地図がなければ、どれほど努力しても知識は点の集まりになり、線にも面にもなっていきません。森の全体像を知らないまま、ひたすら木だけを数えているような状態になってしまいます。 本来、学びとは全体をつかみ、そこから部分へ降りていく流れの中でこそ力になります。最初に地図を手にすると、世界の見え方が一変し、知識が一本の道のようにつながり始めます。地図を取り戻すことは、学びをむずかしくするためではなく、むしろやさしく、そして強くするために必要なことなのだと思います。 続きを読む