いよいよ明日4/21は、テクノフロンティア最終日 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 4月 20, 2017 いよいよ明日4/21は、テクノフロンティア最終日。私もブースにおりますのでぜひ気軽に声をかけてください。ブース番号は4B-12です! http://www.originalmind.co.jp/event/2017/03/tf2017.php リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
世界の究極の支配者は誰か 1月 19, 2026 私は時々、この世界を支配している究極の存在は誰なのか、世界の頂点に立つものは何なのか、そんなことを考えることがあります。しかし、その問いを突き詰めていった先に何があるのかを考えると、結局のところ、それ自体はあまり意味のある問いではないのかもしれない、と思うようになりました。 なぜなら、私たちが「世界の支配構造」と呼んでいるものは、実は私たち自身の精神構造そのものではないか、と感じるからです。仮に、どこかに究極の支配者が存在し、その者が自分の思うままに人々を支配しているとします。私たちはその存在を非難し、叩き潰し、排除しようとするでしょう。しかし、そのときに働いている私たちの精神は、支配者の精神と本質的に同じではないでしょうか。自分の正しさを掲げ、相手を否定し、排除する。その構造自体が、すでに支配の論理だからです。 そもそも、善悪というものは絶対的に存在しているのでしょうか。私はそうは思いません。善悪とは、あらかじめ世界に備わっているものではなく、それぞれの人の認識の中に生まれるものです。世界はただ在るだけであり、そこに善悪の意味づけをしているのは、私たち一人ひとりの認識作用です。経験や知識、積み上げてきた判断基準、生まれながらに持っている性質、そうしたものがフィルターとなって、「ただ在るもの」を見ています。 その意味で、私たちは基本的に錯覚の中で生きています。自分の認識作用が生み出した世界を、あたかもそれが唯一の現実であるかのように信じて生きている。しかし、だからといって、この社会の支配構造をそのまま放置してよい、という話にはなりません。私が言いたいのは、支配者を批判し、排除すれば問題が解決する、という単純な話ではないということです。精神構造が変わらないかぎり、支配者を入れ替えただけで、同じ構造が何度でも繰り返されるからです。 では、何を変えなければならないのか。それは、私たちの認識作用そのものです。これは「観点」と言い換えてもよいでしょう。その観点を通して見た世界こそが、それぞれの人間にとっての宇宙です。観点が変わらないかぎり、世界も変わらない。この観点を健康にすることこそが、究極の解決なのだと私は考えています。 ここで、いつも私が話している「感性と理性」の問題が浮かび上がってきます。現代社会では、多くの人が世界を「理性」というフィルターを通して見ています。理性は... 続きを読む
意識はどこにあるのか ~連携としての生命~ 1月 18, 2026 人間が「死んだ」と判定されるとき、その基準として心臓の停止が用いられることがあります。しかし、心臓が止まったことそのものが、直接的に死を意味しているのでしょうか。むしろ重要なのは、心臓の停止によって血液の循環が失われ、身体全体を一つにまとめていた連携が維持できなくなる点にあるように思えます。心臓は生命のスイッチではなく、循環を成立させる装置であり、その循環が失われたとき、人間という全体は成立しなくなるのです。 この視点に立つと、死とは要素が壊れることではありません。心臓が止まった直後に、すべての細胞が一斉に消えてしまうわけではなく、しばらくの間は生き続けている細胞もあります。それでも私たちは、その状態を人間の死として扱います。これは、個々の要素が残っていても、それらを一つの存在として束ねていた連携や同期が失われたからだと考えられます。死とは破壊ではなく、連携がほどけていく現象だと言えるでしょう。 人間の身体は、血液だけで成り立っているわけではありません。細胞内液や細胞間液、電解質、神経、ホルモン、そして水を多く含む結合組織など、無数の流れが重なり合って存在しています。これらは命令を伝えるというよりも、状態を共有し、全体を同じ方向に揃える役割を果たしています。こうした多層的な連携によって、無数の細胞は一つの人間として振る舞うことができるのです。 意識についても、同じ構造があるのではないかと思います。意識は、肉体に魂が宿ることで突然生まれるものではなく、細胞や分子、さらに小さな要素にまで遍在しているものだと考えられます。人間の意識とは、それら無数の微小な意識が、循環と同期によって束ねられた状態にすぎません。血液や体液の流れは、意識を生み出すのではなく、意識を一つにまとめる働きをしているのです。 この構造は、会社や組織にも当てはまります。社員一人ひとりや各部門が正常に機能していても、それらを連携させる流れが失われれば、組織は成果を生み出せなくなります。情報が循環せず、判断が共有されず、意図が揃わない状態は、壊れてはいなくても、死に近い状態だと言えるでしょう。成果とは、個々の能力の総和ではなく、連携の結果として立ち上がるものだからです。 生きるとは、要素を集めることではなく、流れを保ち続けることだと思います。意識とは実体ではなく、連携と循環が生み出す状態そのものです。死とは... 続きを読む
年頭にあたり ~わかって生きるために~ 1月 02, 2026 私は今、人々が本当に求めているものは「意味」なのではないかと感じています。便利さでも、豊かさでも、効率でもない。それらを手に入れた先で、私たちは次に何を支えに生きればいいのか、その答えを探しているように見えます。 振り返れば、私たちの社会は長いあいだ「貧しさからの脱却」という側面を強く持ちながら進んできました。貧しいことは苦しいことではあるのですが、それが生きる「意味」としての役割も果たしていました。生き延びるために働く。家族を守るために動く。その行為そのものが、疑いようのない意味を持っていたのだと思います。 しかし、ある程度その目標が達成された社会では、生きること自体が前提になります。その瞬間、「なぜ生きるのか」という問いだけが、取り残されるのです。物質的には満たされているのに、どこか空虚さが残るのは、その問いに答えを持たないまま日々を過ごしているからではないでしょうか。 これまでの社会は、この問いに正面から向き合うことをあまりしてきませんでした。理性を重視し、測れるもの、説明できるもの、再現できるものを価値の中心に据えてきたからです。その結果、意識や感覚、直感、意味といった数値にならないものは、扱いにくい存在として脇に置かれてきました。 しかし、それらは存在しないわけではありません。むしろ、人が何を選び、何に心を動かされ、何に価値を感じるかは、そうした領域によって決定されています。それを「測れない」という理由だけで切り捨ててきたとしたら、それは合理的というより、乱暴な態度だったのではないかと私は思うのです。 理性だけで捉えられた世界では、人間は物質となり、できごとはすべて物理現象や化学反応として説明されます。それは正しい側面もありますが、その世界観だけでは、「人はなぜ生きるのか」「この世界は何なのか」という根源的な問いに答えを与えることはできません。そのままでは、私たちは意味を持たないまま「とりあえず生きる」しかなくなってしまいます。 意味のない合理性は、人を長く動かし続けることができません。やがて生きるエネルギーは枯渇します。だからこそ今、感性があらためて重要になっているのだと思います。感性とは、世界を意味あるものとして受け取る力です。出来事に意味を与え、行為に納得を与え、生きることそのものを内側から支える力です。 これからの時代に求められているのは、理性か感... 続きを読む
理性から感性へ ~日本的空間の示す転換~ 10月 31, 2025 私はずっと前から、時代は理性から感性へと移行していくと感じてきました。その理由を、チームラボ代表・猪子寿之さんがTEDで語った「日本文化と空間デザイン」の話を通して考えてみたいと思います。 日本文化と空間デザイン~超主観空間~ | 猪子 寿之 | TEDxFukuoka この講演はもう10年以上前のものですが、彼が語った内容は今なお深い示唆を与えてくれます。彼はそこで、西洋と日本では「空間の見方」が根本的に異なると述べています。 西洋では、世界をひとつの視点から捉える「パースペクティブ(遠近法)」が発達しました。画面の中には必ず「見る主体」が存在し、その視点から見た世界を描く。この構造の中では、世界はつねに「自分の外側」にあります。自分と世界、自分と他者、自分と自然。すべてが分離され、客観的に観察・制御される対象として置かれる。それは、科学や技術、そして近代的理性の発展を支えてきた大きな基盤でもありました。 一方で、昔の日本人の空間認識はまったく違いました。日本画には明確な視点がなく、画面の中に複数の時間と空間が同時に存在しています。それは「レイヤー状の世界」ともいえる構造で、そこでは「見る者」と「見られるもの」が溶け合っています。つまり、自分と世界のあいだに境界線が存在しない。人間は自然の中の一部であり、世界そのものと共に息づく存在だったのです。 この違いは、建築を見ても明らかです。西洋建築は壁によって外と内を明確に分け、強固な構造体としての「箱」を作ります。一方、日本建築では、外と内の境界はきわめて曖昧です。柱と梁で支えられた開放的な空間に、障子や縁側といった可動的な仕切りが置かれ、風や光や音が自然に通り抜けていく。建物は「閉じるもの」ではなく、「自然とつながるための場」として設計されているのです。 このような空間観の違いは、単なるデザインや技術の差ではなく、人間の世界の認識構造そのものの違いを表しています。西洋的な空間認識は、「分ける」ことを前提にしています。そこでは主体と客体が分離され、世界は「自分とは別のもの」として管理される。その意識が進むと、社会のあらゆる領域で「分断」と「支配」が強化されていきます。自然は制御すべき対象となり、経済は競争を前提に動き、人間関係も利害で切り分けられていく。こうして生まれたのが、いま私たちが生きている「理性の文明」です。 ... 続きを読む
記号接地問題と「感性」 11月 19, 2025 AIが急速に高度化し、ヒューマノイドロボットが現実の生活空間へ入り始めている。かつてはフィクションだった「ロボットと暮らす未来」が、ようやく具体的な輪郭を帯びてきた。 その中で私が考えてきたのは、AIの究極の壁として語られてきた「記号接地問題」がどう変わるのか、ということだった。記号接地問題とは、言葉や概念(記号)が、どうやって実際の世界と結びつくのかという問題である。これまでのAIは、記号と記号をつなぐことは得意でも、世界に触れながら意味を「感じ取る」ことはできなかった。 ところが、ヒューマノイドが身体を得たことで、大きな変化が起きつつある。ロボットが触覚をもち、歩き、物を持ち、人の前で反応する。これは、抽象的な記号だけで世界を理解しようとしてきた従来のAIとはまったく違う地平だ。身体を通して世界に触れられるという点で、記号接地は確かに大きく進展する。 しかし、私はこう考えている。身体を持つことで「世界に触れる力」は得られても、「意味を感じる力」はそのままでは生まれない。 人間は、外界に触れるだけではなく、その出来事が自分にとってどんな差異として響いたかを感じ取り、その痕跡を心のどこかに残しながら生きている。意味とは、その痕跡の連続である。環境の変化に対して、自分の内側がどのように揺れたのかという「感じ」があってはじめて、世界は意味を帯びる。 これを私は「観点」と呼んでいる。観点とは、世界をどう感じ、何を差異として受け取り、どんな痕跡として心に刻むかという、人間特有の認識の角度のことだ。観点は主観であり、経験の重ね方であり、ひとりひとりが持つ固有の視点だと言ってもいい。 AIが身体を持つことで、世界に触れ、測定し、行動することはできるようになる。しかし、その出来事が「自分にとってどんな意味を持ったのか」という痕跡は生まれない。そこには痛みも、恐れも、嬉しさも、戸惑いもない。つまり、世界を測ることはできても、世界が「自分の中に生まれる」ことがない。 記号接地問題とは、本質的にはこの「観点の不在」の問題なのだと思う。外界に触れるだけでは意味は立ち上がらない。意味とは、外界と内側が触れ合うときに初めて生じる「感じ」のことであり、これは単なるセンサーでは生まれない。 だから私は、ヒューマノイドの発展によって記号接地問題が「半分解ける」とは思うが、完全には解けないと考えてい... 続きを読む