会社の駐車場にカモシカさんがお見えになりました。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 27, 2020 夕方にちょっと近くまで車で出かけて、会社に戻ったら駐車場にカモシカがいました。こちらにゆっくりと歩いてきて、しばらくのあいだ目が合って、こんどは違う方向に歩いていきました。体は大きいのですが、とてもかわいいカモシカでした。たまにこのあたりを歩いているみたいです(笑) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
日本人と感性 12月 04, 2025 日本人ほど「感性」を軸に世界を読み取る民族は珍しいと思います。それは単なる情緒文化ではなく、世界をどう捉え、どう創造するかという「認識方式」そのものです。 ピーター・ドラッカーは「すでに起こった未来」第11章で、日本の画家について興味深い指摘をしています。「日本の画家は空間をまず見て、線を見るのはその後である。線から描きはじめることはない」。これは対象を「パーツ」へ分解して理解する西洋とは対照的です。日本人は、まず全体の雰囲気や気配を受け取り、その中から線が自然に立ち上がってくる。つまり部分ではなく、全体のふるまいを先に感じ取ってしまう民族なのです。 私は、この特徴こそが日本人の本質的な強みだと考えています。 近代の科学は、世界を要素へ分解することで発展してきました。しかし21世紀は、個々の「要素」よりも、要素間の「関係」が世界を動かしています。創発、複雑系、ネットワーク、文脈。どれも「全体のふるまい」を見なければ本質に触れられません。 これは、複雑系科学が示すように、要素そのものではなく、要素が結びついたときに生まれる「全体のふるまい」こそが本質である、という現代の理解とも共鳴します。 そして、日本人は歴史的にその認知能力を使い続けてきました。日本庭園の余白の扱い、茶道の「間」、工芸に宿る素材との対話。美は物の形にあるのではなく、物と物の「あいだ」に宿る。そこに立ち上がる全体の調和を感じ取ることが、日本人の感性の核です。 今、世界はこの「日本的感性」を必要としはじめています。AI、ロボティクス、分散システム、創発的デザイン。どれも要素分解の論理だけでは届かず、全体の振る舞いを「感じる力」が求められています。 理性は秩序を記述しますが、感性は秩序を生み出します。二つが共鳴したとき、新しい科学も、新しい創造も立ち上がる。日本人はその両方を同時に扱える素地を文化的に持っています。 私は、日本人の感性こそが、これからの時代に必要とされる「未来の知性」の原型になると感じています。そして、その視点を言語化し、現代に接続していくことが、いまの私たちの役割なのだと思います。 続きを読む
私たちはなぜ本当にすごい人を見落とすのか 11月 30, 2025 人は何を持って、誰かを尊敬するのでしょうか。尊敬という言葉は簡単に使われますが、その実態を考えてみると、意外なほど複雑です。 私たちはしばしば「理解したから尊敬する」のではなく、多くの人が「すごい」と言っているからという理由で尊敬してしまうことがあります。アインシュタインの相対性理論を本当に理解できる人は少ないと思いますし、ピカソの作品を専門的に評価できる人も多くはありません。それでも私たちは、世の中の評価に引きずられるように、彼らを偉人として扱います。坂本龍馬にしても、当時の人がその実績の具体的な価値を正確に理解していたわけではないでしょう。それでも「すごい人」という空気が尊敬を生み出してしまう。尊敬とは、理解の結果ではなく、雰囲気によって形成されることがあるのだと気づかされます。 一方で、身近にいる人を尊敬することは驚くほど難しいものです。どれだけ努力し、責任を果たし、困難に耐え続けていても、近くにいるというだけで価値を感じにくくなってしまう。ときには低く見たり、当たり前と片づけたりさえしてしまう。社会の荒波に立ち向かい、正しさのために声を上げる人でさえ、「変わった人」と扱われてしまうことがあります。 しかし、尊敬とは本来、そうした身近なところに芽生えるものなのではないでしょうか。 たとえば、街角のラーメン屋の店長。お店を続けることがどれほど大変かを知れば、その忍耐と工夫と責任感は、胸が熱くなるほど尊いものです。家族を支える人、会社を守る人、静かに信念を貫く人。彼らは派手ではありませんが、確かな重みを持っています。 私は、遠くの誰かではなく、身近な人の努力や苦労を感じ取り、尊敬できる自分でありたいと思います。理解できなくても尊敬してしまうという人間の性質を知ったうえで、なお、目の前の人の価値を感じ取れる心を持っていたいです。 続きを読む
理性から感性へ ~日本的空間の示す転換~ 10月 31, 2025 私はずっと前から、時代は理性から感性へと移行していくと感じてきました。その理由を、チームラボ代表・猪子寿之さんがTEDで語った「日本文化と空間デザイン」の話を通して考えてみたいと思います。 日本文化と空間デザイン~超主観空間~ | 猪子 寿之 | TEDxFukuoka この講演はもう10年以上前のものですが、彼が語った内容は今なお深い示唆を与えてくれます。彼はそこで、西洋と日本では「空間の見方」が根本的に異なると述べています。 西洋では、世界をひとつの視点から捉える「パースペクティブ(遠近法)」が発達しました。画面の中には必ず「見る主体」が存在し、その視点から見た世界を描く。この構造の中では、世界はつねに「自分の外側」にあります。自分と世界、自分と他者、自分と自然。すべてが分離され、客観的に観察・制御される対象として置かれる。それは、科学や技術、そして近代的理性の発展を支えてきた大きな基盤でもありました。 一方で、昔の日本人の空間認識はまったく違いました。日本画には明確な視点がなく、画面の中に複数の時間と空間が同時に存在しています。それは「レイヤー状の世界」ともいえる構造で、そこでは「見る者」と「見られるもの」が溶け合っています。つまり、自分と世界のあいだに境界線が存在しない。人間は自然の中の一部であり、世界そのものと共に息づく存在だったのです。 この違いは、建築を見ても明らかです。西洋建築は壁によって外と内を明確に分け、強固な構造体としての「箱」を作ります。一方、日本建築では、外と内の境界はきわめて曖昧です。柱と梁で支えられた開放的な空間に、障子や縁側といった可動的な仕切りが置かれ、風や光や音が自然に通り抜けていく。建物は「閉じるもの」ではなく、「自然とつながるための場」として設計されているのです。 このような空間観の違いは、単なるデザインや技術の差ではなく、人間の世界の認識構造そのものの違いを表しています。西洋的な空間認識は、「分ける」ことを前提にしています。そこでは主体と客体が分離され、世界は「自分とは別のもの」として管理される。その意識が進むと、社会のあらゆる領域で「分断」と「支配」が強化されていきます。自然は制御すべき対象となり、経済は競争を前提に動き、人間関係も利害で切り分けられていく。こうして生まれたのが、いま私たちが生きている「理性の文明」です。 ... 続きを読む
地図なき学びが生む断片性 12月 01, 2025 最近、YouTubeで大学の講義動画をいくつか視聴しました。先生たちの知識量は膨大で、その専門性に感服しました。ただ、見ているうちに、どうしても小さな違和感が残りました。それは、細かい知識はよくわかるのに、その知識が「世界のどこに置かれているのか」という地図が示されないまま話が進む点です。木は見えるのに、森のかたちが分からない。そんな感じでした。 現代の学問は長い時間をかけて細分化され、部分へ部分へと掘り下げて発展してきました。そのおかげで高度な研究が可能になったのは確かですし、先生たちが日々努力されていることもよく伝わります。ただ、その構造ゆえに、どうしても「全体像を先に示す」という時間が後ろに押し出されてしまうことがあるのだと思います。これは先生個人の問題ではなく、教育の仕組みとして自然に生じる傾きです。 しかし、この傾きが続くと心配になることがあります。それは、学ぶ側が「断片的な知識」ばかりを集めてしまうということです。ある場面では詳しいのに、少し状況が変わると急に難しくなる。「この部分ならできるけれど、他の場面では力が出ない」という人が増えてしまう。これは本人の能力不足ではなく、地図を持たずに学んでしまうために起きる、ごく自然な結果だと思います。 一方で、最近の学問の動きを見ていると、少しずつ空気が変わってきているようにも感じます。個別の知識だけを見るのではなく、「それらがどうつながっているのか」「どんな関係で支え合っているのか」を重視する方向へ、静かに向かい始めているのです。バラバラに扱われていた知識を、もう一度ひとつの世界として見直すような流れです。 だからこそ、学びの最初に「地図」が必要だと感じます。地図があれば、細かい知識がどの枝に属し、どの幹につながっているかがひと目でわかります。逆に地図がなければ、どれほど努力しても知識は点の集まりになり、線にも面にもなっていきません。森の全体像を知らないまま、ひたすら木だけを数えているような状態になってしまいます。 本来、学びとは全体をつかみ、そこから部分へ降りていく流れの中でこそ力になります。最初に地図を手にすると、世界の見え方が一変し、知識が一本の道のようにつながり始めます。地図を取り戻すことは、学びをむずかしくするためではなく、むしろやさしく、そして強くするために必要なことなのだと思います。 続きを読む
目に見えないものを大切にする生き方 9月 25, 2023 私は高校生の頃から、宇宙を理性だけで説明することは不可能だと感じてきた。138億年もの長い年月をかけて創造されたこの壮大な宇宙を、人間の浅知恵だけで説明できると考えるなんて奢りが過ぎる。そう感じてきた。 そのせいか、理性を万能とする考え方や、理性で説明のつかないものを軽視する考え方に触れると、どこか違和感を感じてしまう。たとえば今、過度なグローバリゼーションが各国の多様な伝統や文化を消し去って、画一化しようとする風潮を感じるが、理性で説明できないからといって、それを消し去ってしまってよいものだろうか。その国の人々にとっては何か大切な意味があるだろうから、これからも大切にしていくべきではないか。 流行り病に対する姿勢にも違和感がある。単に理性的な対応だけでは問題の本質に触れられないのではないか。その病気との分離を生むような考え方はやめ、人類にとって一体どのような意味があるのだろうかというような大局的な視点を持ち、共生の道を探る姿勢が必要ではないか。 私たち人間は、様々な事象に境界線を引いてそこに名前と意味・価値をつけている。それが無自覚で人間がやっている認識方式だ。元来そのように認識することは宇宙の目的であった。自分を認識するためだ。しかし理性的な考え方が行き過ぎた結果、喜びよりも苦しみのほうが遥かに大きくなってしまった。私たちは、それぞれの存在が分離独立して本当に「有る」と思い込み、そして、まるでこの3次元空間が世界の全てであるような錯覚をしてしまっている。 この世界は目に見えるものが全てではなく、目に見えないものこそ本質だ。目に見えない世界から、目に見える世界が生み出されており、分離のない世界から、分離しているように見える世界が生み出されている。そして私たちは、心を持った人間ではなく、人間の形をした心であり、この3次元空間の檻の中に閉じ込められた存在ではなく、もっと偉大で尊厳ある存在なのだ。私にはそう思えてならない。 世界は今、物質文明から精神文明へと移行している。その動きはもう何十年も前から始まっている。しかしそれが目に見えて実感できないのは、物質文明において頂点の立場にいる人たちが、精神文明に移行していくのを、もう少しだけ、もう少しだけと、延命措置を何度も繰り返しているからだ。きな臭い出来事が世界中で多発しているのは、それが理由だろう。 しかし時代は、物質文明... 続きを読む